書き続けたわけ

イメージ 1

書き留める、あるいは映像に残す、
と言った記録する行為は、人間独自のものです。
これが故に、人間であるのかも知れない、
と言えるくらいに、人間的な行為だと思うのです。

子どもの頃には、映画、本、テレビ、新聞があって、
それぞれにドキュメンタリーと、創作があった。
必ずしも創作が嘘で、ドキュメンタリーが真実でもなく、
制作する人の心次第で、何でもありの表現の世界。

だけど過去のあらゆる知識は、こうした記録によって、
在りしものとして認識し、様々な思いも巡るのです。
記録のないものは、存在したことさえ危うく、
すべて忘れ去られて、なかったものとなっていく。

記録されたものが史実であり、記録のないものは、
架空の絵空事として、あやふやな思い出話でしかない。
記録に残っていない多くの人は、何を考えて、
どんな暮らしをしていたか、ほとんど分かりません。

だけどそんな絵空事の中にも、魅力的なものがあり、
しばし物思いにふけり、広がりを楽しみたいものもある。
あるいは貴重な考えや、生きるヒントだって、
ふんだんにあったはずだと、思われて当然でしょう。

だからこそ僕は、創作する世界に憧れていたし、
小説や音楽や映像を、大切に思って生きてきました。
自らも小説家を目指し、何冊かの本も出版したし、
このブログを書き続けたのも、記録を残したかったから。

だけど当たり前のことですが、すべてはいつか終わる、
そんな単純なことが、Yahoo!ブログの終了で、
あらためて突きつけられて、あらためて考えました。
この記録をどうすべきか、実は今も考えている。

僕自身が消えてしまう前に、記録が消えてしまうのは、
いかにも寂しいけど、また一つ新しい生が始まる。
そう考えれば、大きな可能性があるわけで、
この可能性を楽しめれば、最高に素晴らしいのです。

いずれ死ぬと思えば、何が失われようと、
恐れることではないし、受け入れて味わえば良い。
まるで転生ように、新しく生き直せる、
身に余る幸せと、受け止めてみたくもある。

子育ては・・・

イメージ 1

右端の一番小さいのが姫ですが、小学生になって最初の挑戦は踊りです。
本人は最近のダンスが好きで、プリパラを歌いながら踊るのが好きで、
日本舞踊を踊る気は、無かっただろうと思います。
でもそれは知らないからで、まだ世界が狭いのですから、
知らないことをいろいろ教えて、世界を広げて欲しいと思っています。

子どもに対して親が出来ることは、せいぜいそんなことだと思うので、
広がった世界の中で、将来自分は何をしたいのかを考えていただきたい。
好きなことを見つけたら、それに夢中になってもかまわないし、
特に夢中になるものがなくても、様々な経験は彼女を助けてくれるでしょう。
やがて見守るしかない時が来ても、心は通じていたいと思います。

さてこのメンバーですが、井波では以前から祭りの時に、
中新町には屋台があるのですが、この屋台の上で踊りがありました。
いわゆる踊り屋台で、ここ10年ほどは中止になっていましたが、
井波が日本遺産になったことを受けて、復活することになったのです。
その踊り手が、この写真のメンバーと言うことです。

近くは5月3日の「よいやさ祭り」で、披露されますので、
近隣で見に来られる方は、ご覧になってください。
とは言え、田舎のお祭りの出し物ですので、
踊りの質までは、期待されないようにお願いします。
にわか仕立ての踊り子たちなので、皆これが初舞台のようですから。


15年間にやったこと

イメージ 1
今では懐かしい北陸平和映画祭のチラシ

15年間続けたブログなので、この間に何をやってきたのか、
最後に振り返りをしておくのも、何かの意味はあるだろうと思う。
特にこの「市民活動ネット」は、具体的な活動記録なので、
この間に自分が何をしていたのかは、自分でも興味深いのです。
富山へ戻って最初にやったのが、N.Y.911テロを受けた、
平和活動でしたが、これは主に東京を中心とした活動でした。

JJプロジェクトに参加して、MLを中心に意見発信して、
時々行われた東京でのミーティングにも、参加していたのです。
そして東京平和映画祭に、スタッフ参加するようになると、
富山で自然農に参加するようになり、砺波で”まみあな”を始める。
このまみあな活動は、僕は一年しか参加できませんでしたが、
自分が何をやろうとしているのかを考える、貴重な体験でした。

JJプロジェクトの合宿を、まみあなでしたのも思い出深く、
ここで知り合った人たちは、その後の僕の貴重な宝物となりました。
翌年には沖縄へ渡って、伊江島平和映画祭を実現できたのも、
大勢の仲間に助けられてのことで、素晴らしい思い出となっています。
そして2006年の5月には、このブログで紹介している通り、
北陸平和映画祭を実現して、ここでも大勢の人と知り合いました。
鎌仲ひとみさんや田中優さんと親しくなったのも、この頃です。

「女性の政治参画」では、高岡市長や国会議員とも意見交換して、
原子力政策への反対や、男女共同参画を申し入れたりしていたのです。
この頃は高岡での活動が多く、ぴ~す・フィルム・ネットとして、
Eネットのメンバーとなって、様々な勉強会を開催していたのです。
その他「ネットワーク地球村」「ガイアの集い」「ピースウオーク」
「富山自然農を学ぶ会」「まみあな活動」「シャキット富山」
「公共哲学ネットワーク」「憲法9条懇談会」等々の活動があります。

アースディに顔を出すようになったのも、この頃でしたし、
2007年には、合併して大きくなった南砺市で自主講座も企画。
「市民活動・入門講座」を開いて、市民活動の広がりを促すと、
自分も富山県生涯学習カレッジ、学びのリーダー育成セミナーに参加。
この頃はまだ原発安全神話が信じられていましたが、そんな中で、
六ヶ所村ラプソディ」や「みえない雲」の上映会も開催したのです。

池田晶子さんを取り上げた、読書会をしていた頃に自宅で取材があり、
KNBの報道政策局の人と、自然農の話題で盛り上がったりした。
「国会ネット」県議会ネット」「高岡市議会ネット」を何度も開催し、
その報告なども、このブログにアップして公開していました。
高岡市長との意見交換は数多く、その後市長は国会議員となって、
ほとんど交流がなくなったのは、なんとも残念な気がします。

高岡市の活動ではその後も、まちづくりに関わり続けるために、
NPOひと・みち・まち」が立ち上げられて、今も続いています。
僕自身は南砺市に田中市長が誕生して、協働のまちづくりが始まると、
次第にそちらの活動が中心となって、高岡市富山市とは離れます。
僕のテーマは「協働のまちづくり」と「生き方としての自然農」となり、
この流れに沿って、読書会や雑穀料理教室などを開催していました。
僕は今よりも元気で、南砺市の市民活動はようやく広がりを見せていた。

富山県市町村新人研修セミナー、とやまNPO協働チャレンジセミナー、
個人企画としては、「DVDで考える21世紀・僕らの課題」など。
2010年前後は、自分でも精力的に市民活動をしていたと思いますし、
その中心となったのは、平和活動と脱原発そして生き方の事でした。
どう生きれば良いかが直接テーマとなり、ブログも精力的に書いていた、
それが2011年の3月11日に、大きな挫折を味わうのです。
危惧したとおりのことが、現実になってしまったのです。

2011年には”ひとのま”が開設され、僕は自然農のエリアを広げ、
井波では八日町で、「縁カフェ」がオープンしていきます。
市民活動の方向を探るために、四国での研修に参加したときは、
現在の妻である女性と知り合って、家族を持つことを考えました。
マルシェや食事会が、僕の市民活動の中心に上がってきて、
政治的な課題は、少しずつ関心を失っていったのかも知れません。

何をしているのか?

イメージ 1

うまい具合に寒暖が進んで、砺波平野の桜は、
もう一週間以上も、ずっと満開が続いている感じです。
ソメイヨシノエドヒガン、ばかりではないので、
ヤマザクラまで含めると、まだ暫くは楽しめる。
今日の写真は、昨日の桜が池で満開だった桜ですが、
井波の大門川沿いも、庄川の水記念公演も満開でした。

Yahoo!ブログが終了する、と突きつけられたことで、
書くとは何か、何故書き留めようとするのか考えました。
人は産まれて生きる中で、様々なことに出会い受け止めると、
それを言葉にしたり、絵に描いたりして表現する。
「受け止めて」「考え」「表現する」を続けることで、
何ものかになろうとするし、実際になっていきます。

やがてその繰り返しの中から、理念による想いが生まれ、
新たな方向を定めて、意思によって生きるようになる。
こんどは大きな挫折や、辛い苦労を味わいますが、
自分が何をしたいのか分かっているので、耐えられます。
同時に理想に近づく楽しみも知り、共感の喜びを知ることで、
価値観を高め、我欲に走らないようにもなるでしょう。

そして「生き方」の大切さに、気付かされたとき、
人生における最大の課題、どう生きるのかを考えるのです。
「表現する」のは、あらゆる個人の自由であるが故に、
自分と向き合うことが大切になって、自然と切磋琢磨する。
自分とは何か、自然とは何かと考えること自体で、
気がつけば、自分を生きていることにもなるのです。

入学しました♪

イメージ 1

忙しいと言えば忙しい、怒濤の一週間でしたが、
姫は無事に、小学校に入学しました。
彼女の大きな門出が、始まったところで、
僕も新たな航海に、出ようと思います。
とは言っても、もうさすがに若くはないので、
まずこの場所で何が出来るか、考えてみましょう。

小農と農村で働く人びとに関する権利

イメージ 1

昨年2018年の12月に、ニューヨークの国連総会において、
小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言(小農の権威宣言)が、
賛成多数(121カ国)で可決されましたが、日本は棄権しています。
これは2012年3月に提出された、小農の権利保護に関する報告書以来、
国連人権理事会諮問委員会で、6年以上にわたって議論されてきたものです。

残念ながら人権や自由の分野では、世界的に後進国である日本は、
この宣言も投票を棄権しましたが、世界の趨勢は変ることがありません。
ちなみに国連総会の採択では、賛成121カ国、反対8カ国、棄権54カ国で、
反対したのはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど既得権所有国です。
「人権は当然尊重されるべきだが、種子など個別の権利を上乗せすることは、
まだ国際社会で議論が成熟していない」(日本国外務省人権人道課)

米国以外の先進国も、農業開発や農地投資などのビジネスを抱えており、
小農の権利を否定しないものの、これで世界の農業のあり方が仕切られることを、
警戒して嫌がったことは、誰が見ても間違いの無い事実でしょう。
世界経済は金融利子の問題を抱えて、あるいは投資利益の問題を抱えて、
袋小路に迷い込んだまま、いつ抜け出せるか見当が付いていません。

そうした金融大国は、かつての世界大航海時代のオランダやスペインのように、
やがて没落して新しい国々の繁栄を迎えるのか、このまま成長を続けて、
どうにもならなくなって破綻するのか、どちらかになるしかないでしょう。
経済と言えども、実効支配が伴わなければ誰も言いなりにはならないわけで、
その実効支配は、限りなく軍事的な実効支配と連携しているのも事実です。
だからこそアメリカもイギリスも中国もロシアも、軍事力を重視する。

世界の目指すべき方向を示した、国連のSDGsが掲げる人権は、
決して北朝鮮やアフリカの内戦する国々など、軍事的な抑圧ばかりでなく、
もっと誰にとっても身近に、自由に生きる事への権利でもあるのですが・・・
例えば日本人は、そうした自由度においてひどく束縛されていながら、
北朝鮮や中国の様々な不自由と比べて、自由に生きていると信じ込んでいる。

だけど実は世界的な視野で見れば、社会の寛容度は低いままだし、
女性や子どもの人権に関しては、口にするのも憚られる雰囲気さえある。
そして実際に悲惨な事件が起きて初めて、新聞やテレビのマスコミが騒ぎ出し、
あたかも新しい社会情勢として、様々なコメントが飛び交うのです。
まさに原発事故がそうであったように、理性ある人々は危険性を知っていたのに、
事件が起きてマスコミが騒ぎ出すまで、危機はなかったことになっている。

土と農業と農村で働く人の権利においても、すでに危機的状況にあると、
知っている人は知っているのに、マスコミが報じないと「ない」ことになる。
ほんの50年前まで、この国を長く支えてきたのは土と気候と農業ですが、
この半世紀の間に化学薬品で土は疲弊し、気候さえ異常を来たして、
ついには農村の暮らしが、成り立たなくなってきているのです。

僕らはもう一度謙虚になって、社会は何処を目指しせば良いのかを考え、
多くの人が議論することで、社会的合意を持てるようにすべきだと思います。
協働も小規模多機能も、市民参画の合意によるまちづくりを目指すべきで、
その意味では、小農と農村で働く人びとに関する権利も同じ事です。
誰も置き去りにしないで、皆が自由に生きて幸せになれる社会造りを目指す、
僕はそのように信じて、自然農も続けて行こうと考えているのです。

7月でブログを終わります!

イメージ 1

Yahoo!ブログのシステムが、今年中に終わることを受け、
僕もこのブログを、7月で終わらせることにしました。
それだって15年にわたって、書き続けてきたこともあり、
7月までの4ヶ月間は、15年ないし井波に住み始めて20年の、
まとめ的なことを、やっておきたいと考えています。

Yahoo!システムでは、7月いっぱいで書き込みが終わる、
とのことですし、僕は7月30日から沖縄へ行きますので、
この沖縄行きをきっかけに、ブログの記入を終えると言うことです。
その後は年内一杯ブログは公開されますが、記入は出来ませんし、
イソップ通信を、他のブログに移すこともしないつもりです。

僕の今後の予定としては、何年かは学校の仕事を続けて、
同時に自然農の方も、体力が許す限りは続けたいと思っています。
市民活動に関しては、もう僕の出る幕でもないようですから、
たまに意見を言う程度にして、あとは若い人たちにお任せしたい。
もう世代交代する時期だろう、と考えているのです。

そして願わくば今後数年間は、昔の創作活動をもう一度、
つまり原稿を書いて、小説に仕上げてみたいと考えています。
18歳の頃から、自分を表現するために原稿を書いてきて、
半世紀が過ぎようとしていますから、僕の中で変ってきたこと、
変らずにいることなどを、もう一度見つめ直してみたい。

ありがたいことに、僕には20歳の頃に「ディラックの海辺にて」
を書いて本になっていますから、これを手掛かりにして、
人間とは何か、人生とは何かをもう一度問い直してみたいのです。
コツコツと日常を過ごしながら、人間とは何かを考えるのは、
学生のことから始まって、死ぬまで続けることになるかも知れない。