書き続けたわけ

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書き留める、あるいは映像に残す、
と言った記録する行為は、人間独自のものです。
これが故に、人間であるのかも知れない、
と言えるくらいに、人間的な行為だと思うのです。

子どもの頃には、映画、本、テレビ、新聞があって、
それぞれにドキュメンタリーと、創作があった。
必ずしも創作が嘘で、ドキュメンタリーが真実でもなく、
制作する人の心次第で、何でもありの表現の世界。

だけど過去のあらゆる知識は、こうした記録によって、
在りしものとして認識し、様々な思いも巡るのです。
記録のないものは、存在したことさえ危うく、
すべて忘れ去られて、なかったものとなっていく。

記録されたものが史実であり、記録のないものは、
架空の絵空事として、あやふやな思い出話でしかない。
記録に残っていない多くの人は、何を考えて、
どんな暮らしをしていたか、ほとんど分かりません。

だけどそんな絵空事の中にも、魅力的なものがあり、
しばし物思いにふけり、広がりを楽しみたいものもある。
あるいは貴重な考えや、生きるヒントだって、
ふんだんにあったはずだと、思われて当然でしょう。

だからこそ僕は、創作する世界に憧れていたし、
小説や音楽や映像を、大切に思って生きてきました。
自らも小説家を目指し、何冊かの本も出版したし、
このブログを書き続けたのも、記録を残したかったから。

だけど当たり前のことですが、すべてはいつか終わる、
そんな単純なことが、Yahoo!ブログの終了で、
あらためて突きつけられて、あらためて考えました。
この記録をどうすべきか、実は今も考えている。

僕自身が消えてしまう前に、記録が消えてしまうのは、
いかにも寂しいけど、また一つ新しい生が始まる。
そう考えれば、大きな可能性があるわけで、
この可能性を楽しめれば、最高に素晴らしいのです。

いずれ死ぬと思えば、何が失われようと、
恐れることではないし、受け入れて味わえば良い。
まるで転生ように、新しく生き直せる、
身に余る幸せと、受け止めてみたくもある。