同じ朝日だけど

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上の写真は、石垣島滞在中に撮ったもので、
下の写真は、南砺市の田んぼのそばで撮ったもの。
同じ朝日が昇るところだけど、ちょうど1時間時差はある。
ただそれだけで、同じ朝日だから何も変わらないかと言えば、
石垣島で撮ったものが、どうしても大きく感じてしまう。

それは海で撮ったものだから、朝日の広がり方が違う、
と言えばそうでしょうが、毎日のことだからこれは大きい。
海で暮らす人は、毎日のように大きな太陽光の広がりを見て、
山で暮らす人は、山の端に見え隠れする太陽を見る。
たったそれだけのことが、人の心を育てる上で、
何か大きな違いをもたらす、と思われたりします。

僕らは旅行と称して、様々な所へ出かけますが、
そこで何を見ようとするのか、これが大切な気がします。
現代は何でも早くなって、交通機関の早さなどは、
望みもしないのに高速化が進み、ゆっくり風景も見られない。
北陸新幹線などトンネルばかりで、情緒も何もありません。

昔は沖縄へ行くにも、沖縄で離島へ行くにも、
フェリーが走っていましたから、これを利用しました。
あるいは富山から東京へ、特急列車が6時間かけて、
信濃や信州の風景を見ながら、ゆっくりと行けたのです。
特急がいくら速くなろうと、鈍行があればいいのに、
これがなくなってしまうから、僕らは多様性さえ失っていく。

朝日ならみんな同じ、と思っている人がいるなら、
それはすでに感性が退化して、感覚がわからない人かも。
ぼくらは隣町でさえ、自分の町とは違う何かを感じ取るし、
まして遠く離れた島であれば、そこへ思いをはせて、
別世界を旅することは、昔なら当たり前のことでした。

僕らは明らかに、何かを失いつつあるのですが、
それが何であるのか、すでにわからない人の方が多い。
それでもわかる人がいる限り、表現が続くかぎり、
失われたとは言わせないし、可能性はどこまでもある。
そう思うからこそ、僕らはたとえ少数の感性でも表現して、
世に問うことによって、人間の存在意味を問うのです。