来週は石垣島です♪

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いよいよ雨が続いて、週間天気予報から晴れマークが消え、
北陸にも梅雨が近づいていると、肌身に感じられます。
田植えが終わって梅雨になり、農作業も一段落と言うことで、
僕らは一週間後には、石垣島で一足早い夏を過ごします。
ちょっとした夏休みのようなものですが、すでに40年間、
ほぼ毎年旅をしてきた石垣島で、今年ものんびり出来る。

初めて石垣島へ行ったのは、沖縄が日本に復帰した翌年で、
それも竹富島の“種取り祭”を見に行こうとして、立ち寄った、
単なる中継地点でしかなかったのに、不思議なものです。
竹富島に半年ほどいて、そこで稼いだお金で台湾まで足を伸ばし、
お金がなくなって那覇へ戻った時、知り合った人に誘われて、
再び石垣島に戻って、お店の手伝いを始めたのでした。

そこでほぼ一年過ごした時に覚えたのが、海に潜ることで、
当時はまだ手つかずの珊瑚礁が、夢のように美しかったのです。
それでもシュノーケリングを覚えたのは、獲物を捕るためで、
周辺の海は貝やウニの宝庫でしたから、いろんなものを食べました。
島の若い人と一緒に、目的に合わせて海を選びながら、
町中のライブ喫茶にたむろして、楽しい時間を過ごしたのです。

楽しみと一緒に知ったのが、なにげない戦争の傷跡で、
子だくさんの中国系の家族と知り合った時に、その子たちが、
必ずしも実子ではなく、戦争孤児だったことも驚きでした。
施設や公共の援助ではなく、ほんとうの家族のようにして過ごし、
事情を聞かない限り、戦争孤児とは思わなかったでしょう。
台湾と往き来しながら、貿易で生計を立てている家族でした。

それから様々なことがあり、僕は外国へ行くことも増えましたが、
珊瑚礁の美しさは、今でも当時の八重山が一番だったと思っています。
そんな石垣島で、「南の北の宿」に逗留するようになってからは、
半年は東京で働いて、夏の数ヶ月を石垣島で過ごしたりもしています。
バブルの時期から12年間、社員として働いていましたが、
その時期も毎年2~3週間は、石垣島で過ごしていたのです。

今考えても石垣島の思い出は、あまりにもたくさんありますが、
中でも忘れられないものが、手作りしたヨットで遊んだことでした。
イギリスから取り寄せたヨットのキットを、一ヶ月かけて手作りして、
翌年から12年間ほど、このヨットが大活躍してくれたのです。
誰もいない美しい珊瑚礁の海を、このヨットを操って、
好きな場所へ行って、フィンとマスクで潜って歩いたのです。

気持ちよく走っているうちに、いつのまにか珊瑚礁を越えて、
かなり沖合を走っていて、漁船に注意されたこともありましたし、
泊まりがけでヨットで出掛け、知らぬ間に台風が接近していて、
宿の主人が、探し出して声を掛けてくれたこともありました。
そのヨットも、度重なる座礁で破損がひどくなって廃船しましたが、
僕らには忘れられない、貴重な人生の思い出なのです。

元気に生きている間は、続けたいと思っている石垣島行へ、
今年も無事に行けそうな感じで、新しい家族と一緒に行きます。
いつか姫が泳げるようになったら、ダイビングを教えて、
一緒に夏の海を過ごしたい、そんなことまで考えてしまいますが、
僕は若くはないので、実現できるかどうかは神様次第でしょう。
その神様には、すでに感謝することがいっぱいですから・・・