原発の不正は導入のはじめから!

能登原発運転差止訴訟原告の、淡川典子さんがお書きになった原稿です。
どこにも掲載されていませんので、許可を得て掲載させていただきます。

~~~(以下転載)~~~~~~
 3月15日に、能登原発一号炉の、八年前の臨界事故隠しが発覚し、続いて他の原発(いずれも沸騰水型:BWRタイプ)の制御棒脱落やそれに伴う臨界事故が明るみにでて、三ヶ月になる。この間に、甘利経済産業大臣は、わが国の「原子力立国」宣言を掲げながら、原発業界のこの膿み出しが、自らの手柄であるかのように語り、また、業界が「しっかりやってくれなければ、困るではないか」と云わんばかりの、当事者意識を欠落させたまま、事実上行政処分なしに近い形で、幕引きを終えたようだ。

 事故当時、各原発サイトには、国から運転管理専門官が派遣されていた(JCO事故のあと、防災専門官制度が加わり、現在は保安官になっている)。それなのに、六サイト十件に及ぶ事故隠しが把握されていなかったのだから、国の運転管理専門官は、機能していなかったことになる。問題は、それだけに止まらない。この専門官の無為に象徴される国の安全規制の棚上げこそが、事故隠しを必然化した根本矛盾であり、おざなりの幕引きをしたのでは、ただ破局を準備するだけとなる。


<炉型の違いは深刻な事故の可能性を消すものではない>

 原発業界内部や、地元の安全管理機関から、「臨界事故などと騒ぐことではない!原発の日常運転は、臨界で成立しておる!」といった趣旨の発言があるという。これは、原発が日常的に危険を伴っていると聞く必要があろう。TMIやチェルノブイリの事故のときに、炉型が違うし、日本の技術者は優秀だから、日本では深刻な事故は起こらないと推進側は大宣伝した。しかし、炉型の違いは、核分裂コントロールの絶対的保障を意味しない。このことの一端が今回の事故隠しの発覚で明らかになった。コントロールできない時間があったのだ。

 チェルノブイリ炉で、ボイドが増えれば、出力は上昇するが、BWRでは、自己制御性があり、ボイドが増えれば、出力は低下するという。ならば、増えたボイドが急速に減ることはないか。ある。炉内圧力が高くなったり、冷たい冷却材が入れば、ボイドはつぶれる。たとえば、主蒸気隔離弁の閉鎖や再循環ポンプの再起動が考えられる。1988年アメリカのラサール二号炉の事故は、危うく後者の例になるところであった。二重のロックの一つが解除できなくて、難を免れた。日本の優秀な技術者はそのロックを外すことはないと云えるか。技術者の優秀さは、安全側に必ず機能するとは限らない。そして、また、チェルノブイリ四号炉の核分裂速度は、一秒間に2000世代、日本の軽水炉は一桁速いという。それだけ、コントロールが難しいということではないか。

 主蒸気隔離弁全閉の例は、一つ二つではない。能登原発二号炉では、閉じるはずの弁が閉じなかった例がある。反対側に動いたのだから、大丈夫と云えることではないだろう。


<深刻な事故がなくとも、日本に原発適地があるか>

 原発は「CO2汚染をしない」と云われてきたが、最近では若干表現が変わってきている。原発は「運転の過程において」CO2を出さない、といった具合に。原発は、大量に石油・石炭があるから、成立する技術で、石油文明の内なのだ。しかも、出力調整運転を嫌う、小回りのきかない技術だから、大量生産・大量消費の牽引車である。それが、CO2汚染に無関係なはずはない。

 原発は、猛毒物質生産工場である。単純に考えて、電力を作るのに、なぜ猛毒物質の大量生産の技術をつかうのかと、疑問が湧く。原爆材料の生産の必要があって、出てくる蒸気をただ捨てるのはもったいないから、電力生産に回すというなら、それなりの合理性をもつ。本体は不要で、副産物の利用だけするのは浪費の最たるもの。もったいないから、本体も生かしましょう!は、願い下げだ。大量の石油を投入して、ウラン238プルトニウムに換えて、これを国産のエネルギー源と呼ぶのは、笑止千万。

 原発は、猛毒物質大量生産の技術であれば、原発の事故はなくとも、大量の猛毒物質は残る。その問題は、原発からの受益のない将来の人々も、その管理の労働を強いられ、そのための資器材等の経済的負担も課せられるだけではない。彼らが十分な管理努力を尽くしても、地震大国日本においては、彼らに被曝被害を及ぼすかもしれない。たとえば、プルトニウム239の毒性の半減期は、2万4000年。24万年経って、一千分の一くらいまで毒性は減衰する。大した減衰ではないが。それまでの安全性すら、われわれに保障ができるか。できないのだから、猛毒物質の大量生産は停止すべきだ。

 この点は、原発の日本への導入の当初から、わかっていたことではないか。


原子力損害賠償措置額 当初50億円 現在は600億円>

事業者は操業のために保険を必要とするが、原子力発電事業にあっては、事業者と単独の民間保険会社との間の契約ではスタートできなかった。1961年に原子力損害賠償制度がつくられたが、それは二つの法律を必要とした。

その国会での審議の前提として、科学技術庁原子力産業会議に、災害評価の委託をした。結果、出されたものが「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害に関する試算」
(通称:原産試算 1960)である。その全文が国会に提出されたわけではない。また、ここでの大型原子炉とは、現在の標準タイプの電気出力百万KW(熱出力三百万KW)級ではなく、熱出力五十万KW級である。10万キュリー放出と1000万キュリー放出の二つのケースの要約が国会には提出された。物的損害の大きいものは、3.7兆円に及んだが、国会には「1兆円を超える」として、出された。当時の国家予算は1.7兆円規模だ。予測損害が国家予算の二倍を超える事業を、許容できるものかどうか、徹底して審議する機会も与えられなかった。国会自らが放棄したと云えよう。

 下手をすれば、国民に計り知れない被害をもたらすものであれば、信頼できる災害評価が得られない限り、国会での審議の条件は熟していないとして扱われるべきものである。だが、その条件が整わないまま、見切り発車された。日本の原子力保険引受機構は、地震の損害についても、引き受けるつもりでいたようだが、再保険の国際原子力保険引受機構に拒否された。地震大国日本の地震の損害など、誰も引き受けられない! そして、措置額も、保険業界が引き受けられる額として、はじき出された。損害賠償制度は、二本建てとなった。民間責任保険においては、<正常運転><地震津波・噴火><10年以降の請求>の損害は免責となり、この分は、事業者と政府との間の補償契約で、カバーされるところとなった。これも補償措置額の限度においてのことだ。予測被害額との開きの大きさを考えれば、事業者の無限責任(無過失責任)の原則は画餅と云えよう。措置額100億円時代に、某電力会社の保険金総額は5000億円余りでは、ほとんどが自社の財産損害のためである。


<保険料からわかる原発のリスク>

 室田武が「原発の経済学」で、原発のリスクの大きさと安くはない!ことを、よく描いている。表4-3(朝日文庫判 119頁)に「東京電力(株)の各発電方式別の発生電力量1000kW時あたりの損害保険料支払額」が示されている。

1991年度 水力 4円35銭  火力 6円03銭  原子力 31円31銭 
1992年度 水力 4円29銭  火力 6円23銭  原子力 34円89銭

 この頃、能登原発一号炉の建設差止訴訟の一審で、電力側証人は、自社の計算で、原子力は安いと証言することはできなかった。「通産の計算によれば、安い」としか、云えなかった。事業者が、自社の経済計算により「安い」とは云えなかったところに、この問題のごまかしの元が、透けてみえるだろう。

 水力発電の発電単価が異様に高いことに触れておこう。原発建設とともに増やされている水力発電所がある。揚水発電所だ。原発が小回りのきかない技術であることはすでに述べた。出力調整がまずいため、余剰電力の流し先と設定されており、電力不足の場合には、ここで発電するものとされている。しかし、某電力会社はその稼働率を10%と見込み、稼動実績3%といった具合で、その非効率・不経済は著しい。その揚水発電が、電源別発電単価の計算では、原発には分類されないで、一般水力にくっつけられて、水力として、扱われる。その分、原発の発電単価は安いとごまかしている。

 原発が安いわけがない。気が遠くなるほど、長い年月管理が必要なもので、その経費、場合によっては、膨大な損害額の計算など、できるはずもない。それが、計算できるかのようにみせること、それ自体がごまかしである。能登一号炉控訴審の判決は、原発を「負の遺産」と呼んだ。「遺産」と呼ぶのは早すぎる。これ以上猛毒物質を生産できないように、われわれが意思決定できる「負の財産」である。さらに処分がむずかしくなる前に「処分」すべき、「負の財産」である。


<ただいま 原発 実験中>

 能登一号炉で、即発臨界になったテストは、初めてのものだという。先行するルーティーンのテストがあり、その後復帰措置がなされていたなら、少なくとも事態の異常を知らせる警報がなったはずであるが、コントロールルームでは、スクラムをかける事態であることをキャッチしながら、スクラムがかけられず、作業現場では、その事態の認識がもてない作業環境になっていたという。そもそも、後続のテストの電気保修課の作業員は、制御棒を扱うのは初めてというのに、起こりうるかもしれないリスクを知らされていなかったという。初歩的な事前の研修等の形跡にさえ欠けている。

 そのテストによって、何が確認されることになるのか。
 深刻な事故対策の一環として、「原子炉停止機能強化工事」が行われた。

原子炉内の圧力が高くなったり、水位が低下した場合には、制御棒が挿入されてスクラムがかかることになっているが、その系統とは別の電気系統の信号によって、スクラムがかかるようにした改良工事だという。その機能の確認のために、テストは行われるはずであった。だが、このとき、圧力容器は蓋が開けられていたし、水位は十分あったという。そうであれば、配線に間違いがなければ、テストは合格に決まっている。

 能登のいずれの試運転の折にも、報道人が招かれて、「ECCSの作動」をみせられたという。圧力容器の蓋は開けられていたというのだから、運転条件にはない。このとき、配管が詰まってさえいなければ、水は圧力容器に注ぎ込まれる。これを「ECCSの作動」とは、云わない。

 似たような確認で、手順を間違えて、即発臨界を起こされるなど、冗談ではない。手順を間違えても、安全側に機能するように、また、致命的な失敗にはけっして落ち込まないように、「フェイルセイフ」「フールプルーフ」の仕掛けが組み込まれていればこその原発であろう。

 しかし、そもそも、原発は実規模で実験はできないと云われながら、大型原子炉で商業運転がなされているのである。この根本矛盾を国はいつまで無視するのだろう。取り返しのつかない甚大な被害を出してしまってからでは、云うまでもなく、遅すぎる。

追記: 三月二五日の能登半島地震震源は、北電が二つの原発の原子炉設置許可申請の折に添付した地質図の断層と重なるが、北電は、この断層をすでに活動が終わったものとして、原発建設に当たり、考慮を要する断層から外しているという経緯がある。これらの断層がつながっているとすると、どれほど大きな地震の可能性を考えないといけないのだろうか。


2007.6.9    淡川 典子 (能登原発運転差止訴訟原告)