「1968(上)若者たちの反乱とその背景」

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「〈民主〉と〈愛国〉」「〈日本人〉の境界」などの大作で、
日本人とは何かを追求され続けている、小熊英二さんの新作を読みました。
「1968(上)若者たちの反乱とその背景」と題されたもので、
上巻だけで1091ページの労作は、時間が掛かった割には面白かった。
と言っても、当時自分がこの学生運動世代だったかと言えば、
微妙にずれて、その後のシラケ世代だったと言えるかも知れません。

年代だけで見れば、1968年はまだ中学生だった僕にとって、
当時の日本各地では、高校も含めて学生運動が盛んだったとは言え、
それは都市部の話でしかなく、田舎はごく平穏すぎる日々だったのです。
学生運動の姿をナマで見たのは、東京の大学へ進学してからのことで、
それもすでに大きな闘争が終わった後の、残滓の姿でしかなかったのです。
したがって1968年当時のことを書いたこの大作は、興味こそあれ、
自分の身に即して読もうと、思っていたわけではありません。

ところが読み始めてみると、時代背景からして納得のいく内容で、
当時の学生が置かれていた状況が、当時の自分よりも明瞭にわかってくる。
当時学生として、「このまま社会参加したい」とは思われなかった僕は、
大学を卒業すれば競って就職する線路を拒否し、長い旅に出ています。
必ずしも時代背景をわかっていたわけではなく、有る意味では、
当時の学生運動と同じように、どうしようもない閉塞状況を感じていた。
この本の時代分析を読むと、同じ時代の申し子だったことが知れるのです。

しかしながら、大学毎の細かいセクトの話になると違和感がある。
僕が入った大学でも、セクト的な動きやデモは残っていたのですが、
当時の僕から見てさえ、彼らは何を望んでいるのか納得できなかったし、
今この本を読んでみても、やっぱり納得できるものではなさそうです。
あえて共通するのは、絶望的なまでの無力感なのかも知れませんが、
ヘルメットにゲバ棒で、機動隊と暴力の応酬をしたいとは思えなかった。
受験時代に身につけたジョン・レノンの LOVE & PEACE によって、
社会の縛りや拘束から逃れて、自分とは何かを追求したかったのです。

もちろんこの本では、セクト的な活動を肯定も否定もしていません。
ただ当時の様々な学生運動が何であったのかを、客観的な視点で描くため、
膨大な資料を調べ上げて書かれていることは、敬意を表さずにはいられない。
この客観的な視点によって、当時から学生運動に共感できなかった僕も、
同じ時代に生きたことを共有しながら、当時を振り返ることが出来る。
田舎の中学高校で、遠い世界の学生運動をどう見ていたかもわかってきて、
絶望的な学生運動ではない、希望を求めて旅に出たことがわかるのです。

読み終わって思うことは、やはりこの圧倒的に数の多い団塊世代が、
戦後の日本を良くも悪くも形づくってきた事実であり、さらにこの事実は、
もしかして今もほとんど変わらずに続いている、閉塞状況の継続です。
それは経済拡大に道を求めるしかなかった戦後の日本が、今も変わらず、
新しい社会指針が見つけられずに、閉塞状況を続けている!ってこと。
もしかすると、見つけられないのではなく、見つけたくないのかも知れない、
ある種の挫折ノスタルジーが、新しい社会を拒んでいるのではないか?

この先も当分の間、日本の人口構成は団塊世代が最大部分かも知れず、
民主主義の原則に則って、この世代の考えが日本社会を導くのだとすれば、
すでに全く違う価値観で将来を考える、新しい社会の構築は難しい。
日本人の多数意見が、なぜ低俗なマスコミの思惑通りに振り回されるのかは、
テレビの前に座って新聞を読むことでしか、ものごとを考えたと思わない、
圧倒的多数の絶望的な団塊的思考が、社会を支配しているからかも知れない。
この本を読んで最終的に考えたのは、そんな日本像だった気がします。
 
 
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