小説 「本牧百貨店」Ⅱ-2

 青い顔をして飛び退いたナミは、ややあって現実に戻るとサキの顔をじっと見つめた。
「どうしたんだ」
 サキもまた時の隙間を縮めることができないまま、たった一歩の距離を歩み寄れずにナミの顔を見つめていた。
「おねえちゃーん」
 と健ちゃんの声がして、ナミは悪い夢からさめたように、みごとに笑顔を作って健ちゃんに見せた。それはちょっとしたシャワーの後の虹だった。
「どこかで休もうよ」
 もうだいぶ歩き回ったに違いない。サキもそろそろどこかで休みたかった。
「そうだ、せっかくここまで来たんだから、イスラ・ムヘーレスのポンナへ行こう」
 何のことだか分からないのだから、健ちゃんもナミも異議は唱えなかった。

 メリダで高熱を出して、このまま死ぬかも知れないと覚悟を決めた旅の果てだった。ようやく熱の引いた躰を、せめてしばらくは気候のいい美しい場所に休ませたいと思い、行きずりの男とプエルトファレスから船に乗った。
 船はカリブ海へ向けて滑るように進んでいった。海はずっと海底の砂の白さを透かしてライトグリーンにきらめいて見えた。なつかしい潮風がサキの心の中までを吹き抜けていく。やがて見えてきた宝石のように美しい小さな島は、期待通りに海鳥とセイリングヨットの白が似合う、落ち着いた雰囲気のある島だった。
 水彩絵具をほどよく真水に溶かしたような淡いブルーの海を桟橋に上がると、甘酸っぱい香りを漂わせるオレンジ売りが器用に皮むき器を操っている脇から、少し年長の子供達が上陸客の荷物に向かって走り寄ってきた。荷物を持たせてくれと言うのだ。十ペソ欲しいと言うのを相手にしないでいたら、五ペソでいいと言いだした。安くて清潔な宿へ連れていってくれることを条件に、持ってもらうことにした。
 三・四人の子供達が「ハポネス、ハポネス」と言いながらついてきた。「コンニチワ、アリガト、サヨナラ」と知っている日本語を三つ、口々に並べて言ってみせる。島の青空と同じ底抜けの明るさが、サキの心までも透明にした。
 村はずれの島の裏浜に近い静かな一角にある、コンクリートの城壁のような建物に案内された。窓らしい窓も見あたらない。サキは一瞬不安になった。けれどその入口から出てきた若いふたり連れを見て、すぐに不安は消え去った。ふたりの曇りのない笑顔が、この建物を使う生活のすべてを物語っていたのだ。
 そこがポンナだった。
 入口でパスポートを見せてチェックインを済ませ、薄暗いゲートを抜けて中へ入ると思わずあたりを見回さずにはいられなかった。
 ちょうど古いスペイン人の邸宅のように、周囲がぐるりとベッドルームやバスルームの住居となり、中央はパセオそのままに日差しが降り注ぐ青天井の広場になっている。たくさんの椅子とテーブルと華やかな色柄のパラソルが並べられ、くつろいだ格好でグレープフルーツやセルベサの缶を並べた若者達が、英語、スペイン語、ドイツ語、その他聞いたことのない言葉を時にはたどたどしく繋ぎながら、暑すぎることもない夏の午後の光陰の中に浮かんでいた。
 宿泊料は日本円にして五百円くらい。ベッドルームは四人から八人用の部屋が八部屋。他にもハンモッグをずらりと並べた吹き通しの部屋があり、そのすべての部屋は、バスルームを除いて終日ドアは開け放ってあった。
 ベッドは木製の木枠に、テニスラケットのガットのようにロープを張った風通しのいいもので、サキはその上にレンタルの毛布を敷いて横になった。相棒は自前のシュラフを敷いて横になっていた。
 毎日朝昼晩と数種類の日替わりメニューの食事が用意され、客はセルフサービスで自分の好みに合ったものを注文する。セルベサを飲み過ぎたりさえしなければ、一日千五百円で何不自由のないカリブの生活を楽しむことができる。日中はビーチやサイクリングを楽しんでいた人達も、夕刻には食事に集まり、青天井の中庭で今知り合った異国の若者同士が、すぐに親しく打ち解けていく。
 誰かがギターを弾き出せば、ほかの誰かが歌い出し、別の誰かが聞き惚れた。
「知っているわこの曲、なんて歌ってるの、どこの国の歌かしら」
 カナダのトロントから休暇を過ごしに来た石油会社の女が、誰にともなく尋ねた。
「これはベトナムの歌なんだ、ベトナムの自然の美しさを歌ったものだけど、戦争が始まったときは反戦歌として歌われたんだ」
 向こう側の席にいた髭もじゃの男が、わざわざ近づいてきて教えていた。
「イッツ、ビューティフル。イッツ、ビューティフル」
 女は何度も繰り返してそう言った。髭の男はもっと何か言いたげだったが、うっとりと聞き惚れている女の顔を前にして、言い出そうとしていた言葉を呑み込んでしまった。そのときサキは髭の男と視線が合った。髭の男は肩と眉をすくめて見せた。サキも同じように、ちょっとだけすくめて見せた。
 静かになると、裏の岸に寄せる波の音がわずかに聞こえた。

 村はずれの道をビーチへ向けて歩いていた。
 ヤシの葉陰にテントを張って打楽器の練習をしている男がいた。緊張した顔をして一心不乱に手を動かしていた。
 道が左右に分かれ、右の道は島の北端にある島で一番大きなホテルへと続いていた。
 サキは左の道を進み、明るく白い砂浜の続くビーチへと出た。いつもゆるやかに風が吹いていた。
「ポンナはないのね」
 ナミが言った。
「でも島はあったよ。イ、ス、ラ、ムヘーレス」
 健ちゃんは間違えないように区切って言った。
 三人はビーチを見渡せる砂丘の休憩所で木造の寝椅子にくつろぎながら、熟れたオレンジをその場で絞ったジュースを飲んだ。
 ピラミッドは売られてもポンナは売れないのだということが、いくらかはサキの心をなごませてもいた。しかしイスラムヘーレスの島さえが売られてしまえば、いずれポンナはなくなってしまうだろう。
 実際ポンナが本当にあったのかどうか。結果として心の中の記憶にしか存在しないのだとすれば、あるいはサキにとって現実は空想のスクリーンに過ぎないのかも知れなかった。
 サキは自分が何十歳も年を取ったような気がしてきた。ちょうど、ナミや健ちゃんが曾孫であればふさわしいように。サキは少し疲れたのだと気が付いた。まるで長く生きすぎた千年樹のように。
「もう帰りましょうか」
 とナミが言った。