ゲシェラの修行

沖縄市での映画祭の時、金森監督から興味深い話を聞いた。
彼は「チベットチベット」でダライ・ラマからも取材しているけど、
その時ゲシェラの地位にある高僧の家に泊めてもらい、
興味深い体験をしたことを教えてもらった。
夜明けの早朝に、僧の部屋から不思議な物音がして、
後になって、何をしていたのかと尋ねたら、毎朝の修行として、
600の杯にバケツから水を入れて、さらにそれをバケツに戻すのだそうだ。
そのような一見無意味な作業がどうして修行になるのか?
この話を聞いたときに、僕は自分が初めて沖縄へ行くきっかけになった、
今村昌平監督の「神々の深き欲望」を思い出した。
この作品の中で、近親相姦の罪を犯した男への罰として、
ひたすら砂の穴を掘って、その穴を埋め戻す作業を科せられる。
その一見何の役にも立たない作業が、妙に心に残った。
それをゲシェラの修行話しに重ねて見えたのだ。
人は自分がやっていることに意味を求めすぎ、
執着しすぎるときに、思いも寄らぬ罪を犯すように見受けられる。
だとすれば、最初から合理的でないものを身に付けておくことは、
余計な執着から脱する、大切なことなのかも知れない。
お盆の墓参りの準備をしながら、今日はそんなことを考えた。