「そろそろ左派は〈経済〉を語ろう」

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昨年5月に、亜紀書房から出されたこの本は、
関心を持ちながら、読む機会が無かったのですが、
秋にどうしても読みたくなって、買って読みました。
読み終わると、僕の経済の常識が白紙になり、
政治世界に対する造詣が、いくらか深くなりました。

この数年間に起きた、政治経済ニュースを見ていると、
特にヨーロッパで、新しい動きが出ているように思います。
移民問題に絡んだ、極右とか極左の勢力拡大と並んで、
プライマリーバランスを求める、財政緊縮政策に対して、
多くの国で、反緊縮財政を求める声が強くなっている。

僕らが以前から学んだのは、収入と支出は均衡が大切で、
支出を増やしたければ、収入も増えなければならず、
赤字財政を続けることは、将来に債務を残すことだと言う。
家計にしても企業会計にしても、その通りですから、
国家においても、収支バランスが大切だと信じたのですが。

どうやら何かが違う、と感じたのは比較的最近のことで、
12月に「資本主義の歴史」を読んで、少し理解できたのです。
お金を重視して考えることに、なぜ罪悪感を感じるのか?
資本主義の歴史の中で、資本が誰にでも手に入る時代に向けて、
ある種の抑止力として、イギリスで考えられた価値観だった。

これはそれなりの成果があって、多くの国の教育においても、
お金の価値観を、ある種〈卑しいもの〉としてさげすみ、
お金に対する執着を、避けるシステムになっていたのです。
お金が偶像化されて、それ自体を求めるようになれば、
本来の役目が見失われて、自由経済が歪められてしまう。

そこに潜む問題は、今でも無くなってはいないのですが、
それを解決するのは、むしろ何処へ向かおうとするのかって、
目的意識であって、政治的課題と言っても良いものです。
いわゆる資本主義には、経済を膨らませる力がありますが、
向かう方向が見えないと、お金崇拝が進んでしまうことになる。

しかしこのお金が、何かを解決するとすれば話は別で、
実際に現代の経済の歴史を見る限り、いくつもの役割を持つ。
例えば人々の暮らしが豊かになるには、総生産額よりも、
支出に回せる金額の大小が問題で、政治がこれを担います。
国家の政治においては、収支は二の次でいいのです。

もともと何も無かったとしても、政治的方向性があれば、
政治は多くの人に資本を分け与えて、生産性を上げられる。
それで生産性が上がれば、あとから資本を拐取すれば良いし、
多くの国民が豊かになれば、自然と資本は回収できる。
これが家計とは違う、国家財政の在り方と言えます。

そこで問題になるのが、EUなどに見られる緊縮財政で、
スペインやイタリアなど、多くの国がうまく回らなくなった。
これに異を唱えて、反緊縮財政を訴えるのが極右極左なのです。
これは純粋に経済の問題であり、移民政策など関係ないのに、
繋げて考えるから、f現実が見えなくなっているのです。

まったく同じことは、日本のアベノ独裁でも起きており、
内閣はなりふり構わずに、経済政策を重視していることで、
支持を保ってはいるけど、改憲を支持する人は少ないのです。
民主主義を蔑ろにする、この内閣が支持される理由とは、
野党が経済政策を疎かにしているから、と言えるでしょう。

こうした現代の政治経済事情を、的確の示してくれるのが、
ブレイディみかこ松尾匡北田暁大の3人共著による、
「そろそろ左派は〈経済〉を語ろう」だったのです。
現代の政治経済を理解するのに、是非一読されてみたら、
不思議に思っていたことが、すっきりと分かります。