秘められた恋心?

イメージ 1

来週月曜日(15日)に、読書会を控えているので、
あらためて「青桐」を、最初から読み返していますが、
読む度に新しく気付くことがあって、面白いですね。
この作品から見いだしたテーマは、二つあって、
一つは(自然に生きる)とは、どういうことなのか、
そしてもう一つが、(誰のために生きる)のかってこと。

(誰のために)あるいは、(何のために)という問は、
古くから文学の大きなテーマで、優れた作品がたくさんある。
だけど(自然に生きる)をテーマにしたものは、少ないし、
現代的な価値観と合わないので、忘れられがちである。
それでも僕自身は、自分が自然農から生き方を学んでいるので、
(自然に生きる)とはどういうことか、大いに関心がある。

さて「青桐」の中で、際だって自然を生きているのが、
允江の育ての親である叔母で、この人が作品の柱でもある。
主人公は允江ですが、允江はあまり主体性を持たずに、
叔母の影に隠れるようにして、従兄の史朗を好いている。
この秘められた恋心こそが、允江の感性を豊かにしていますが、
逆に允江の人間性を閉じ込めてしまい、自由を奪ってもいる。

允江には、人目をはばかる顔の傷があることからも、
不特定の人と交わることが苦手で、避けて生きてきています。
叔母と兄と従兄姉とだけ、そんな狭い世界の中で生きて、
没落する旧家の歴史を見ていますが、さして不満も感じない。
ところが叔母の死が迫ったことで、自分と向き合うことになり、
兄の話を聞いて、叔母や史朗に対する気持ちも乱れます。

このあたりの允江の心は、見事に表現されているのですが、
乱れる心の奥に、叔母の生き方に対する尊敬も見えてきます。
子どもの頃から叔母に憧れ、実の子ではないことから、
ある種の後ろめたさのようなものが、世界観の全体に繁栄する。
そして叔母が亡くなると、なにか憑き物が落ちたみたいに、
史朗への執着も薄らいで、新しい世界に踏み出しそうな予感がある。

叔母を支柱として暮らしてきた允江が、その柱の陰から、
身近にいて遠い存在だった史朗に憧れ、密かに恋い焦がれていた。
それが時代と共に変ってきたことを、叔母の死に際によって、
ようやく知ることで、世界が大きく変って見えてきたのでしょう。
社会の価値観が変って、叔母の生き方は時代にそぐわなくなり、
密かに允江と史朗だけが守っていた何かが、一気に壊れる。

北陸の女となると、一括りでは分からないことですが、
砺波野には確かに、こうした自然を大切にした歴史があります。
時代に流されずに、あるものをありのままに大切にする、
それが自然を大切にすることでもあり、自然農にも繋がる。
気がつけば僕自身、生まれ育ったこの土地の風土を身につけて、
長い旅の終わりに、幼子の恋心に戻っているのかもしれない。

この叔母のように、強い柱のような存在はいなくなり、
柱の陰から恋い焦がれたような、秘められた恋心も無くなった。
そう思うのは僕が年取ったせいで、今でも若い人たちは、
誰か大きな柱の陰から、憧れの世界を窺っているのでしょうか?
その大きな柱は、もう自然ではあり得ないのかも知れないし、
自然に託せるものなど、すでに失われているのかも・・・