自立できない日本人
日本で「女性の自立が必要だ」という、言い回しがされるとき、
その裏には、「男性は自立している」との思い込みがあるようです。
確かに古い日本の女性訓では、父に従い、夫に従い、長男に従う、
とされてきたことは、多くの人が知っているとおりです。
この影響なのか、一家の主は男性との思い込みは今でも強く、
町内会などの集まりでも、一家に一人であれば男性が赴きます。
これでは女性の地位が向上することは難しく、国際的な観念でも、
日本の女性は自立心が弱く、男女平等とは言いがたいようです。
しかしながら男と女は一対なので、男が強ければ女は弱いのは必然で、
そのほうが日本文化にも合っているから、問題ないという人もいる。
国家像から個々の家族像まで、家の主人が家族を庇護して、
その代わりに国民や家族は自由を制限され、主人に従うのです。
セクハラとかパワハラとかも、強い立場にある者たちが主人で、
立場の弱い者たちを、保護するという観点から出来ている。
だけど僕としては、この思い込みこそがどうも危うい気がするし、
何か問題をずらしてしまい、解決すべき事を見えなくしていると思う。
それをわかりやすくするには、まず思い込みを無くす必要があって、
「女性の自立」というなら、「男は自立しているのか?」と問うてみます。
すると欧米の人に比べて日本人は、女ばかりか男も自立しておらず、
彼らは自分の意思を持たないかの如く、ご主人に従うのです。
国家では独裁者に気に入られようとするし、企業でも官庁でも、
自分が所属する組織に対する忠誠ぶりは、抜群に素晴らしいのです。
個人の主義主張や生き方で、仕事を選んだり仲間を選んだりするよりも、
自ら進んで組織に加わり、その組織に忠誠を捧げて安心する。
こう考えてみると、家庭内で妻子を従わせようとするのも当然で、
個々人の自由よりも組織の都合を優先するから、男性社会であたりまえ。
男頭で合理的に考えれば、様々で多様な諸個人の都合よりも、
全体のバランスを考えて自分を抑える、男社会がいいと考えてしまう。
「常識をわきまえた」人が大切にされ、新しい意見は求めながらも、
狭い常識の範囲内でなければ、検討される価値さえないのです。
そしてこの強い者を柱とする、国家像を支える立場にいる者は、
独裁者よろしく何でもしてしまうし、法の網さえ抜け出したりする。
三権分立など子どもに教えるだけであって、実情は抜け穴だらけだし、
セクハラもパワハラもこの延長上だから、泣き寝入りだって数多い。
長いものに巻かれることも、確かに必要なこともあるでしょうが、
自分がどんな価値観でどう生きるのかは、常に自立していたいものです。