ポスト真実

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世界最大の英語辞典である、オックスフォード辞典において、
昨年「時代を最もよく表す言葉」を、「ポスト真実」としました。
聞き慣れない言葉なので、何かと思って調べてみたら、
“post truth”とは、
「世論の形成において、客観的事実よりも感情的・個人的な意見のほうが
 より強い影響力を持つこと。受け入れがたい真実よりも個人の信念に合う
 虚偽が選択される状況をいう」(デジタル大辞泉)とありました。

英国のEU離脱決定や、米国のトランプ大統領就任に関して多く用いられ、
広まった言葉だそうで、フェイクニュースとも違うもののようです。
フェイクニュースは、最初から人を特定の方向へ導こうとして、
ありもしないことをニュースにして拡散する、とんでもない行為です。
だけどこのフェイクにしたって、これだけ情報量が多い時代には、
何が真実か検証していたら、時流に遅れるというジレンマがつきまとう。

そしてこのポスト真実においては、さらに困ったことに、
振り回される側も、自分の思いに近ければいい情報だと思っている。
SNSの発達によって、自分と同じような感覚だけが重視される情報で、
たくさんの「いいね」があると、それが世界の多数派だと勘違いする。
数の多さだけが根拠となって、真実であるかないかを検証しようとも思わず、
短絡的に自分の意見を述べて、同調者の数が多ければ溜飲を下げる。

毎日何回も気分的な情報を発するようでは、信頼に値しないと思うけど、
アメリカ合衆国大統領がそうなので、膨大な人がポスト真実に流されている。
それが良いことだとは思わないけど、「悪貨が良貨を駆逐する」の如く、
良質でないものの方が、圧倒的に早く情報は拡散していくのです。
この膨大にして過剰な情報社会で、僕らは何を信じて行動すれば良いのか、
いちいち検証できないことは間違いないので、まず振り回されたくない。

こういう時こそ、新聞テレビのようなマスコミに期待されますが、
そのコメンテーターのような人が、検証もしないで情報を流しているのです。
懸念されたことではあるけど、膨大な情報を人間は消化しきれないので、
検証できないのであれば、自分の思いを代弁するような記事を指示してしまう。
百年前の人たちなら、確信を持ったことで判断するのが当然だったのに、
今では自分を放棄して情報に振り回され、人間性が劣化しているのでしょう。

何が真実かを考え、検証することは時間の掛かることですが、
その真実を基に自分で判断して、世の中のことをも理解していく。
そうした理解が追いつかない、素早く流れ去っていく時代においては、
自分の生き方を持たないでいると、必ず流されてしまうのです。
結果としてその流れが果たして人をどこへ導くのか、誰にも分かりませんが、
僕らが望みもしない方向へ流されることが、あまりにも懸念されます。