「私はサラリーマンになるより、死刑囚になりたかった」

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最近はテロに限らず、無差別殺人がまかり通って、
しかも罪悪感が感じられず、不気味な感じがします。
この殺人という行為に対する、強い執着とは何なのか?
理解し難いので、どう考えたものかと思っていたら、
そのヒントになりそうな本を見つけ、読んでみました。

「私はサラリーマンになるより、死刑囚になりたかった」
と長い題名は、そのまま本の主人公の気持ちです。
独白手記のような形式で、いわゆる私小説のようですが、
内容的に深いとは思えず、やっぱり手記でしかない。
それでも興味深いのは、実際に犯罪を犯す人には、
少なからずこうした感覚がある、と思われる点です。

著者の松本博逝さんは、関西学院大学法学部卒業で、
本の主人公が言う、一流私立大学卒業の立場になります。
そして三流の大学卒業生や、そうした学歴のない人を、
世の中の落ちこぼれとして、さげすんでいる基本がある。
しかし自分の状態はと見れば、ニートと同じであり、
決まった仕事もなく、母親に食べさせてもらっている。

こうした自分の考えと、現実とのギャップによって、
主人公は努力することを半ば諦めながら、夢は見ている。
子どもの頃の自由な時間に憧れて、我を忘れて遊べば、
友達になれそうだった子どもたちの、親が出てきて遮断する。
夢に従って就職しようとして、現実の厳しさに腹を立て、
結局どこにも採用されないまま、母親に養われている。

面白いのはそこからで、この状態を何とかしようと思い、
自分を変えるのではなく、鬱憤晴らしのような殺人を考える。
「殺人をすれば英雄になれる」、と考えるのも奇妙だけど、
「殺人という人類で最高の悪をするとき、自尊心が満たされる」
と考える理由も分からないし、主人公も分からないようで、
「それがなぜなのか、その理由の深層がわからない」と言う。

結局は何から何まで、自分の思い込みの理屈で押し通し、
万人に通じる理性などないのだけど、彼は真面目に考える。
この妙な真面目さと、他人には通じない理屈によって、
主人公の思い込みは発露を求め、現実の殺人を計画する。
計画と言っても特定の相手はなく、殺人自体が目的なので、
殺人の具体的な描写はなく、死刑囚になって終わります。

社会に対する不満が色濃くあって、それを解決できず、
解決しようと努力もしないで、不満だけを膨らませていく。
その不満を発散させる方法として、殺人を選ぶのですが、
この手記的私小説には、共感できるものはありません。
ただ流される幼稚な理屈に、閉口するだけですが、
それが殺人者の理屈と言うなら、わかる気がします。