「ノー・マンズ・ランド」

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身、ダニス・タノヴィッチ監督の出世作で、
ノー・マンズ・ランド」を見たのですが、これは凄い作品でした。
と言っても、いわゆるハリウッド映画のような派手さはありませんし、
スケールもこぢんまりとして、戦争映画ではあるけど大作映画でもない。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナで起きた内戦の一日、静かに夜が明けたところから、
取り残された一人の男が日没を迎えるまでの、たった一日を描いた映画です。

霧深い夜に道に迷ったボスニア兵士たちが、一眠りして夜が明けたとき、
敵陣のすぐ近くにいることに気づいたときには、もう敵の銃撃を受けていた。
あわてて逃げる兵士たちの中で、チキが負傷しながらも助かると、
状況を確認しに来たセルビア兵士2人に、銃弾を浴びせて生き延びます。
そのときセルビア兵士のニノも、負傷しながら生き延びて命を助けられる、
そしてもう一人、気絶していたボスニア兵のツェラは地雷の上に寝かされている。

ほとんどこの3人、チキとニノとツェラが物語を作っていくのですが、
これに国連防護軍と戦場を取材するマスコミが、とんでもない活動をしている。
と言ってもこの映画はコミカルではなく、登場人物の様子は真剣なのですが、
どこかで何かを間違え、どうにもならない迷路に入り込んでしまっているようです。
タノヴィッチ監督にとって、この映画が長編映画のデビュー作であり、
それまではボスニア紛争の中で、ボスニア軍に参加しながら映像を撮っていた。

300時間以上の戦地の映像を撮って、世界中で上映されていた人ですから、
戦争の現実を誰よりもよく知って、それを映画にしたかったのでしょう。
特に国連の役割に関して、現場と司令部での情熱の違いが描かれているのを見ると、
タノヴィッチ監督はこのあたりの事情も、明るみに出したかったのかも知れない。
国連防護軍は戦場の最前線で何が出来るのか、何も出来ないじゃないかと、
訴えたかったし、マスコミの役割の限界も示しておきたかったと思われます。

監督の視点はセルビア側でもなければ、ボスニア側でもないままに、
戦争そのものの“どうにもならなさ”を、実にうまく描いていると思いました。
戦場ですから、銃を持っている側が銃を持たない人間を自由に操るけど、
それはすぐに立場が逆転するし、誰が正しいかも銃次第で変わってしまう。
ボスニアの陣地とセルビアの陣地の中間にあって、誰の所有地でもない、
ノー・マンズ・ランドで繰り広げられる、心の戦場の物語なのです。

実にうまく組み込まれた状況は、直接映画を見てもらわないと、
うまく伝えられませんが、命がけの真剣さが笑うしかない状況を生んでいる。
この辺の様子は、是非多くの人に見ていただきたいと思いますが、
最後にタノヴィッチ監督のメッセージを、ここに記しておきたいと思います。
この言葉の意味するところは、どんな理由や正義を唱えたところで、
ひとたび戦争が始まってしまえば、人間の理性など役に立たないと言うことでしょう。

「戦争とは精神状態です。銃弾の音や、頭上を通るヘリコプターのプロペラではないのです。
 戦争は、それを生きる人間の心の中にあり、戦いが終わった後も消し去ることが出来ません」
                                        ダニス・タノヴィッチ監督