子どもの貧困

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このところテレビ新聞等多くの場所で、子どもの貧困が話題になっています。
これは食べるに困るような絶対的貧困ではない、相対的貧困と呼ぶようですが、
何か違和感があって気持ち悪く思いながら、何がイヤなのかうまく言えない。
そこで昨日、高岡で催されたEフェスタのパネルディスカッション、
「おせっかいin高岡~子どもの貧困~」に行って、話を聞いてきました。

パネラーもコーディネーターも、企画団体も知っている人ばかりだったので、
話の内容はよくわかったし、相対的子どもの貧困や対応現場の状況もわかりました。
特に宮田さんが話された「目に見えない線引き」は、僕自身も感じたことで、
これはあらゆる場面にあって、多くの人を悩ませている気がします。
何か援助を受けようとするときに、十分な資金がないことの劣等感というか、
お金のあるなしによって、自然に引かれてしまうラインがあると言うことです。

僕は名実ともに貧乏人ですし、申請すれば生活保護を受けられそうな収入ですが、
実はそれで何が困っているかと言えば、お金の問題ではなかったりします。
例えば20年前には、会社仕事でお金を稼ぐよりもやりたいことがある、
と考えたので会社を退職し、故郷へ戻って今の生活を始めました。
お金には「貧しさを創り出す仕組み」があると感じて、なるべくお金を遠ざけ、
その上で豊かな生活を求めて、まみあな活動ほか様々な取り組みをしました。

2002年に自然農を始めてからは、この活動の方向性の向こうに、
お金の問題を克服する鍵があると感じ、ずっと取り組んできたと言えます。
そんな中で市民活動による「協働の町作り条例」作りにも、参加したのですが、
去年行政の仕事を手伝う中で、天下りの実情なども身にしみて感じたのです。
軍隊も経済も実効支配が世の中を牛耳っており、この現実を踏まえないと、
どんな理想も絵に描いた餅で、誰も実際にそのようには動かないということです。

さてこのような学習をしてきた上で、僕は今子育てをしているわけですが、
最近どうにもならない、イヤなことを感じることが増えてきました。
子育てを始めてから、自分は貧乏人だと思わされることが増えてきており、
実際そのために、何か収入の道を増やすことも考えざるを得なくなってきたのです。
もう少し正確に言うなら、今まで僕は貧乏であることは気にならなかったのに、
子育てを始めると、急に貧乏であることが罪のように思わされるようになるのです。

相対的貧困がどんなものかは、相変わらずよくわからないままですが、
貧乏は同じ経済状態でも作られるし、実は何も実態がなかったりします。
教育を受ける権利や、教育を受けさせる義務と言ってみたところで、
皆と同じランドセルを持っていないと、それだけでいじめの対象になってしまう。
同じようにある一定レベルは要求され続け、ハードルは決してなくならず、
そんなことは教育の趣旨からずれていようがいまいが、これが実効支配です。

実効支配のわかりやすいものが軍事で、知らずに染まっているのが経済とすれば、
いつのまにか教育の世界でまで、実効支配が当たり前になってきている。
子どもの貧困の実例に対して、そんなものは貧困ではないとバッシングされ、
あるいは線引きをして「あなたは貧困」と決めたがるのは、差別したいからで、
差別することで、自分は大丈夫だと思いたいという願望が透けて見える。

気がつけばあらゆるシーンで、差別する対象を見つけて非難し哀れみ、
そうすることで自分は大丈夫だと思いたい、いじめと同じ構造に棲んでいる。
この構造に気づき、構造から離れない限り、貧困問題はなくならないと思うのです。