鎮守の森から

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日本には昔から、神社の数だけ森がありました。
それらは「鎮守の森」と言われ、神聖な場所として、
神社を守るのと同じ大切さで、守られてきたものです。
それがここ半世紀の間に、経済性だけで潰されて、
そうした地域はバランスを失い、環境悪化が進んでいる。

そもそも日本の神社には、どうして鎮守の森があるのか?
神社によっては、ご神体そのものが森だったりするし、
海の神をまつる神社でさえ、鎮守の森に守られていたりする。
僕が住む町にも八幡神社があるし、砺波平野全体にも、
越中一宮と言われる高瀬神社があって、人々は畏敬の念を抱く。

それぞれの神社には、規模に応じた鎮守の森があって、
北陸でもっとも大きな気多大社には、広大な森が控えている。
いやそうした大きな神社ばかりではなく、集落の小さな神社でも、
小さな鎮守の森があって、子どもの遊び場になっています。
人々が暮らす場所には、生きる意味の拠り所としての神社があって、
その神社には、かならず自然のままの森があると言うことです。

現代でこそ、子どもの遊び場は社会が用意した公園ですが、
僕が子どもの頃は、まだ近所の空き地か近くの鎮守の森でした。
鎮守の森にはなぜか、手つかずの部分があって大切にされており、
僕らは子どもの頃から、その神秘性に守られて暮らしていたのです。
まるで僕らは、神秘性を失っては魂が滅びるかのように。

鎮守の森に手をつけることは、冒してはならないタブーで、
人が暮らす場所には、必ずそうした神聖な場所が必要でした。
時代が変わって、そうしたタブーや神聖さは失われてきましたが、
果たして本当に、意味を失ってしまったのでしょうか?
もしかしたら、ただ意味を忘れてしまっただけではないのか?

極限まで歪んで、破綻してしまった経済価値観の現代に、
多くの人々が忘れてしまった価値こそ、大切なのだとしたら。
今も守られている日本中の鎮守の森こそ、人間の価値尺度による、
環境保護と言われるものより、遙かに大切に思われるのです。
人間的尺度を超えた鎮守の森は、人間に計算された環境保護よりも、
さらに大きな尺度によって、人と自然の循環を見守っている。

4月5月と、国際的な環境保護の動きに賛同しながらも、
なぜいつも不完全なのかと考えたときに、そこに神聖があって、
僕らは人間的な尺度を超えないと、正しくなれないのだと感じます。
人間的尺度の拠り所は、霊性と呼ばれるような神聖にあって、
まずそこを感じ取れない限り、正しい方向性など得られません。

その神聖を見失わないように、僕らは村を開発するときも、
村の中心に神社と鎮守の森を置いて、自然界とのバランスを図った。
開発の規模が大きくなって、このバランスを見失ったから、
環境保護などという視点が、必要になったのかもしれません。
僕らは本来が自然の一部だから、自然に謙虚に暮らすことが必要なのに・・・