少子セックスレス化と谷崎潤一郎
現代は少子セックスレス化の時代で、若い人たちは、
セックスどころか、男女の恋愛にさえ関心が薄いようです。
どうしてこうなったのかは、様々な説があるようですが、
身の回りが老人ばかりで、プライバシーが重んじられますから、
若い人同士が知り合うことも、少なくなっているのでしょう。
さらに性的なことに関わると、面倒が増えてしまうので、
なるべく関わらない方が、快適に暮らせる時代でもあるようです。
セックスどころか、男女の恋愛にさえ関心が薄いようです。
どうしてこうなったのかは、様々な説があるようですが、
身の回りが老人ばかりで、プライバシーが重んじられますから、
若い人同士が知り合うことも、少なくなっているのでしょう。
さらに性的なことに関わると、面倒が増えてしまうので、
なるべく関わらない方が、快適に暮らせる時代でもあるようです。
子どもを産む産まない以前に、妊娠しないことには、
少子化を止めることなどできませんし、妊娠するどころか、
セックスに対する興味が希薄では、子供が増えるはずもありません。
少子化は困ると言いながら、子どもを産む制約は昔のままであり、
結婚しないで生まれる子どもは、相変わらず不利なのです。
それは先日川崎で起きた、小学生が殺された事件でも、
一人親の母は余裕が無く、子どもの様子がわからなかった、
と悔やむ姿に、象徴的に現れていると思うのです。
僕らの若い頃には、まだまだ性は神秘的であったし、
女性に対する関心は、パトスとして情熱を高めたのです。
最近の小説や映画を見ると、やたら暴力的で人が死にますが、
以前の文学では、こんなに人は死にませんでしたし、
一つの生死に対して、多くの人が真剣に関わっていた気もします。
命がけの恋のようなものが、実際に身の回りにもあったし、
それが当たり前だったから、セックスだって真剣だった。
ところが現代では、若い人は学生の頃から様々な要因に、
例えば受験や就職に追いつめられていながら、履け口がない。
社会はすっかり出来上がっているので、反抗してみても、
はじき出されて、社会全体を向こうに回すことになるのです。
いわば余白のない時代で、許される自由と言えば、
おカネを稼ぐことくらいしかない、窮屈な時代なのです。
そう思って考えていたら、谷崎潤一郎の人生と作品の中に、
興味深いことがあったので、少し考えてみました。
谷崎潤一郎は、たぶん文学史に輝く文豪として知られ、
今でも多くのファンを持つでしょうが、彼の作品を読めば、
性に関わる様々なことが、真摯に描かれているのがわかります。
実生活においても、彼は多くの女性と関係を持っているし、
最初に惚れてしまった女性は年上で、結婚を断られ、
その妹と結婚しますが、長続きはしていません。
さらにそのまた妹と関係を持つも、結婚は拒否されています。
この頃の谷崎は、まだ若かった所為もあるのでしょうが、
性欲は人一倍強くて、女性がいないと困るほどだったようです。
このあと42歳にして、21歳の女性と結婚していますが、
毎日4回セックスする日が、一ヶ月間続いたと本人が言っています。
その後は松子と知り合ったことで、彼の性欲は形を変えて、
様々な優れた作品を書き上げ、谷崎源氏、細雪へと続くのです。
こうしたパトスが芸術性を持って、一つの表現へ向かうとき、
日本人の財産とでも言うべき、芸術性の高い作品が生まれたのです。
昔から「英雄色を好む」とも言いますし、男にとって性は、
家族制度には押し込められない、発散するパワーだったのです。
それが現代では、稼ぎと生産性の中に閉じこめられてしまい、
パトスは衰えて、草食系男子が中心の世の中になっているとすれば、
セックスレス化による少子化は、簡単には解決できません。
社会全体の価値感と伝統をどうするか、どんな将来像を持つか、
産まれてくる子を無条件に受け入れられるか、問われているのです。