「ハンナ・アーレント」

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日本では昨年10月に、岩波ホールで公開されて以来、
平和を願う多くの人々の間で、圧倒的に支持されている映画、
ハンナ・アーレント」を、フォルツァ総曲輪で見てきました。
この映画は、2012年度東京国際映画祭で上映され、
高く評価されたはずなのに、なぜ一般上映されなかったのか?
このあたりが、一般的な映画興行の限界なのでしょうか。

1960年代に、何百万ものユダヤ人を収容所へ送り込んだ、
ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕されたと知って、
ハンナが裁判の立会を求めるところから、この映画は始まります。
イスラエルで行われた裁判では、誰もがアイヒマンを非難して、
アイヒマンを非難しないと、ナチスの手先とまで言われるますが、
彼女は冷静に思考を続けて、客観的な考えを公開します。

ザ・ニューヨーカー誌に掲載された、裁判のレポートでは、
アイヒマンを平凡な人間と見極め、今世紀最大の悪事に対して、
彼個人の悪意ではなく、考えることをやめた人間の悪だと主張する。
この発表に対して、多くの友人からさえ非難の声を受け、
中でもユダヤ人の友人からは、付き合いさえ拒否されますが、
彼女は自分の信念を曲げず、一つの思想へと高めていったのです。

アイヒマンはなぜ、多くのユダヤ人を平気で殺したのか?
イスラエルの裁判で登場する証人は、悪行の数々を指摘しますが、
それらの行為は、彼が直接手を下してはいないのです。
彼がそれを指令する立場であり、本部からの命令に従って、
ガス室行きである列車に、大勢のユダヤ人を乗せて出発させますが、
この最悪の事実さえ、彼が望んでやったことではないとすれば。

そしてさらに深刻な問題は、ユダヤ人の強制収容所内に、
ナチスに協力するユダヤ人リーダーが、存在していたことで、
結果として大量虐殺の手助けをした、という拭いがたい事実でした。
これを記事にして、ハンナは世界中のユダヤ人から攻撃を受け、
心からの友人に、ユダヤ人だから親しく愛したのではない、
友人だから愛したのだと言っても、理解されなかったのです。

そしてこの映画では、最後に若い聴講生で溢れた教室となり、
彼女の集大成とも言える、スピーチが用意されていました。
そこで彼女は、アイヒマンと言う男がおこした大量殺戮の正体は、
彼の本質的な悪によるものではなく、ごく普通に生きていた、
凡庸な一般人によってこそ、引き起こされるものだと指摘したのです。
彼女はこれを、「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と表現しています。

あらゆる周囲の雑音を押しのけて、ハンナは孤独な思考に没頭し、
この「悪の凡庸さ」を見出したことで、現代にも生きています。
こうした優れた思想が、新しい時代を築いていく基となるのですが、
僕は映画の中で知った彼女の考えの中で、特に忘れられない、
とても大切な核の部分を、最後に思い出しておきたいと思います。
それは「悪は本質ではない、人間には善だけが本質だ」と言うものです。