座学で学ぶ自然農

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石黒さんが主宰する、富山自然農学びの場では、
毎月一度は、田畑の現地ではない勉強会があります。
普段は富山市の中心地で、行われることが多いのですが、
毎年冬場には、八尾のコミュニティセンターで行われ、
今回僕は久しぶりに参加して、話しに加わってきました。

今回のテーマは、池田晶子さんの養老孟司さん読み解きを、
どのように受け止め、自分のこととして考えるかの話しです。
まず石黒さんから解説があって、それに対して意見を言い、
そのまま自分の考えや、感じたことを述べていく。
意見のやりとりをしながら、自分の考えを確認したり、
他人の考えを参考に、自分の考えをまとめたりするのです。

午後の1時から5時までの4時間で、途中休憩が一回だけ。
4時間も話し合うなんて、現代では貴重な経験なので、
参加した20人ほどの人たちは、皆さん真剣な様子でした。
真剣と言っても、日頃から自分の暮らしの中で、
漠然と思っていることや、考えていることを表現して、
人の意見も聞きながら、解きほぐしていくのです。

資料のテーマから、養老孟司唯脳論とは何かに始まり、
「死体とはなにか」「それは私だ」とする覚醒から、
僕らはなにを学ぶのか、話し合っていきました。
東大で学生を相手に教えていた、唯脳論を理解するとは、
【在ること「存在」、「存在形式」への掛け値なしの驚き】を、
自らが驚きとして受け止める“心境”だと言う池田さん。

池田さんの文章から、そこの所を拾ってみると、
「あれこれの技術や知識なら教えることも出来よう。
 しかし、驚きというこの“心境”だけは教えることが出来ない。
 なぜなら“心境”は、客観的対象ではないからである。
 各自で考えて感じてもらうしか仕方がない。これがツライ。」
この部分に集約されるのでしょうが、僕らもここを求めている。

自然農を始めたきっかけは、問題を起こさない生き方という、
その考えや発想に、共感するものがあったからですが、
自然農にはもう一つ、「死体」と同じ「揺るぎなさ」があります。
僕らはこの大自然の「揺るぎなさ」を、不動の拠り所として、
現代の農業が時代の申し子であると知り、社会の有り様を知る。
変わらないものと変わったものを知ることで、本質を知るのです。

実際にはもっと、具体的な子育ての話などもありましたが、
今回はどちらかと言えば、形而上の話が弾んでいたと思います。
今どき形而上の話よりも、もっと具体的なノウハウや、
自然農そのものの話を求める人も、多いかも知れませんが、
生き方を考えること無しには、自然農など有り得ないのです。