真実と情報は違うもの

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僕がインターネットを使い始めたのは、17年前のことで、
日本にはまだ数えるほどしか、プロバイダーもありませんでした。
当時は多摩市に住んでいたのですが、ネットを初めてからは、
早々と新聞もやめてしまい、ニュースは主にネットで見ています。
と言ってもまだテレビも見ていたし、マスコミ情報抜きには、
今一つ信用性に欠けるのが、ネット情報だった気がします。

それから何年かして、NY9.11事件が起きてからは、
新聞テレビ情報が必ずしも信用できない、とわかってしまい、
真実はむしろ、ネット情報の中にこそあると考えられてきました。
特にこの数年は、携帯端末とインターネットが入り組んできて、
海外で起きている戦争の様子さえ、ほぼリアルタイムで見られます。
それはテレビ局からの映像ではなく、素人が自分で撮ったもので、
戦争現場に暮らす人が、直接映像を送ったりするのです。

ところがこうなると、一つの映像が意味するものが何かは、
配信する人の意図によって、どうにでも変わってしまいます。
目の前に見せられる映像は一つでも、それをどう解釈するかで、
まったく違う意味を持って、世界中にリアル配信されてしまうのです。
昔は「見ることは信じること」なんて言いましたが、現代の映像は、
映像自体が真実でも、情報としては必ずしも真実ではなかったり、
配信の意図を考えないと、誤った理解をしてしまう材料にもなるのです。

シリアの毒ガス騒ぎも、毒ガスが使われた事実は映像で見れますが、
反政府勢力はこれを政府が使用したとして、世界に情報発信しながら、
その映像は前もって用意されていたことを、訝る人もいたのです。
いわゆる反政府組織による、政府批判を広めるキャンペーンだったと、
告発する人もいて、映像だけでは真実かわからないのが事実です。
こうした映像と解説の組み合わせで、真実と情報は別物になってしまい、
ネットテロのような現象も起きれば、虚偽報道もあとを絶ちません。

そして今深刻なのが、フェイスブックツイッターも含めた、
虚偽の情報公開による、真実の隠蔽や虚像の構築と蔓延でしょう。
個人の情報ソースであっても、リアルタイムで配信されてしまうと、
信憑性の確認もなしに、一気に広がってしまう可能性があります。
その結果、あるいじめで自殺した事件の加害者が特定されて、
加害者の祖父として写真を配信された人が、全く別人だったのに、
バーチャルの情報が拡散して、真実を押しつぶしてしまったのです。

彼の会社にまで嫌がらせの電話が掛かり、近所の人も白い目で見たり、
やがては自分の身うちにまで、彼を疑う人が出てきたと言います。
もしも周囲の人全員が、彼を加害者の祖父だと言い張れば、
これを否定することは、至難の業になってしまうかも知れません。
一人暮らしの人がこうなれば、生きていくことさえ苦しくなるでしょう。
虚構が真実を駆逐するなんて、考えたくもないおぞましさですが、
これを政府が実証してみせるとき、僕らは恐怖を覚えてしまうのです。

あまりにも多くの情報が、簡単に手に入ってしまう時代だからこそ、
僕らはもう古い格言を捨てて、見ることが信じることではないことを、
肝に銘じて、あらためて真実を探す人にならなくてはなりません。
明らかに配信元の違う複数のソースで、手に入れた情報でない限り、
この人なら信用できるので大丈夫、と言った顔の見える情報でない限り、
うかうか情報を信じないことが、真実への道だと知るべきでしょう。