子だくさんはDVなのか?

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先日の辛淑玉さんとの意見交換の時に、気になる発言がありました。
「貧乏子だくさんは、幸せのはずがない、女性に対するDVだ」
と言うものですが、はたして本当にそうなのでしょうか?
僕は男性なので、推し量りがたいものもありながらも考えてみました。

実はこの発言には、僕にとって二つの疑問が思い浮かんだのです。
一つは改めて貧乏とは何か?という、長年の僕自身のテーマですが、
もう一つは、夫婦の性交渉と出産もDVの可能性があると言うことです。
夫婦でいながら、特別な理由もなく性交渉を拒み続けることは、
離婚の正当な理由にもなると聞いたことがありますが、本当なのか?

貧乏で夫婦が仲良く、子だくさんになるなんてありえない・・・
と言われると、昔の子だくさんの人たちは皆DVだったのか?
潤沢にお金があれば、DVはDVでなくなってしまうのか?
そもそも何をもって貧乏と言っているのか、考えてしまうのです。
しかしながら、貧乏を抜きに考えた場合に見えてくる疑問もあります。
そもそも夫婦の性交渉は、どこからDVになってしまうのか?ってこと。

僕は3年前に書いた記事、↓「濡れる濡れないの話し」の中で、
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18/61510210.html
村上春樹の「ノルウェーの森」を参考に、新しい男女の価値感として、
「現代では女性にも主導権があって、女性が濡れないと男性は押し入ってはならない」
と書いたのですが、辛さんの話ではこうした新しい関係がでてこない。
あるいは、このような新しい関係が尊重されていれば、
結果としても、子だくさんにはならないと言うことでしょうか?

実はたしかに「子だくさんにならない」のが、新しい自然にも思われます。
昔から男は、結婚していても他の女性に感心があるのが普通で、
それは生物学的にも、多くの精子をばらまく男の本能だから仕方がない、
みたいな感覚がまかり通って、女性でさえそう思っているフシがありました。
だけど本能の話を言うなら、さらに遡って母系制の時代を思えば、
女が家を守って、男はそこへ通い婚よろしくやってきていたのですから、
同じ男ではなく、次々に様々な男が「こと問い婚」に来たでしょう。

つまり本来の自然な姿を言うなら、男も女も同じ相手ばかりではなく、
常に新しい相手を求めていて、その方が性交渉には適しているかも知れません。
「直子はワタナベとの一夜で、初めて濡れて男を迎え入れるのですが、
しかしそれは一回きりで、そのあとはまた濡れなくなります」とあるように、
男であれ女であれ、本当に良い恋愛や性交渉は常に一回限りのものかも知れない。
昔はその一回限りの“本物”を、生涯大切に思って暮らしたのです。

国の経済政策に合わせた、制度としての結婚が定着してしまうと、
男女は本来の自由な恋心や性の喜びよりも、体制維持を画策してしまう。
こうした不自由な感性の世界では、濡れようが濡れまいが性交渉をしてしまうので、
限りなくDVに近い事態がないと、子だくさんにはならないのでしょう。
現代の実情に合わない結婚制度こそ、DVを生む温床かも知れないのです。

辛さんの言葉をこのように理解しながら、新しい男女のいい関係には、
制度としての一夫一婦制や、結婚制度そのものを脱皮して、
もっと基本的に人権を大切にする、新しい考え方が必要だと思いました。
子育てを誰かに託すなら、社会がサポートするのは当然なのです。