新しい豊かさを求めて

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僕が経済的に貧乏であることは、自他共に認めます。
だけど不幸かと言えば、そこそこ幸せを感じていますし、
自分で求めたものは、やはりそこそこ手に入れながら、
日々の暮らしをやりくりして、基本は楽しく暮らしている。
そもそも貧しい暮らしかと言えば、むしろ豊かな感じで、
あまり多くのものをお金に頼らずに、暮らしが成り立っている。

周囲を見回せば、毎日大量の宣伝情報に囲まれた人たちが、
何でもお金を支払って、買うことで満足しようとしているから、
どこまでお金を使っても、次々に不満の材料を見つけだす。
あるいは新たな不満を創作して、もっとお金が必要だと思わせ、
ひたすらお金の重要性を説くことで、社会価値観を確立し、
お金で買えないものたちの価値観を、次々に貶めていっている。

お金の価値観に縛られた人たちは、幸せはお金ではない、
なんて言っても、にやにや笑って本気にはしないし、
そんな話は青い若造の戯言だとさえ、思っている節がある。
ここまで日本人の価値観が壊れてしまったのは、高度経済成長で、
お金さえあれば何でも手に入る、と思い込まされたせいでしょうか。
実際に金本位制が崩れてからの経済界は、金融制度が闊歩して、
膨大な量のマネーが、世界中の生活環境を壊してきました。

経済が膨らめば、様々な社会問題が解決できると思い込ませ、
実際には人間の経済活動では賄いきれない、人間活動の負の部分を、
自然界に肩代わりさせて、大切な地球環境を散々破壊してきた。
これが経済の本当の姿なのに、こうした人間が引き起こした問題さえ、
もっと経済が膨らめば解決するかの如く、騙し続けるのが金融社会です。
経済総体がどれだけ膨らんでも、それは貧富の差を拡大するだけで、
社会全体としては、貧しくなっていることに目をつむっている。

いったい誰が何のために、このようなシステムを作りあげて、
ひたすら富めるものと貧しいものを、拡大生産するようになったのか?
イルミナティとか金融マフィアとかが、はたして何を目指しているのか?
僕にはどうも、彼らが実体のある何かを求めているとさえ思えない。
その正体はと言えば、富を集積するシステムを作り上げてしまったので、
ひたすら富を追い求める人たちが、皆でそのシステムを守っている。

要するに人間の程度が低い人たちが、ひたすら富を求めるから、
このシステムはますます強靱に富を集め、さらに賛同者を募って、
ひたすら富集約のシステムとして、確立してきたのではないでしょうか。
このゴースト性ゆえに、誰一人責任を取れる人もいない形で進行し、
それを経済性の誤謬として、気付かない振りをし続けているのでしょう。
僕らに出来ることは、まずこのシステムに乗らないことなのです。

システムを改革しようとすれば、どこまで探っても何にも行き着かず、
対処療法をするしかないので、それは体制の補完にしかならない。
大切なのは、なるべくシステムに乗らないことから始めるしかないので、
心して哲学的に、自分は何者か、何をしようとしているのか、
と言ったことを探り、善心と対話しながら生きていくしかないのです。
これは一見難しそうですが、古い日本人の心にはこうした習慣があって、
それゆえに三種の神器には、かならず鏡があったのでしょう。