「番犬は庭を守る」

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現代日本の代表的な表現者となった、岩井俊二さんの書き下ろし小説ですが、
この小説は決して3.11によって描かれたわけではなく、それ以前から、
すでに映画企画として書かれていた題材を、小説という形で発表されたものです。
彼の表現は主に映画監督として、映像作品が残されるものが多いのですが、
僕自身は「スワロウテイル」が最初の出逢いで、面白い作家だと思っていました。
だけど田舎暮らしをはじめてからは、作品に接する機会はほとんどなくなり、
辛うじてウエブ上の「岩井俊二映画祭」を覗き見るくらいでしょうか。
http://iwaiff.com/

その岩井俊二宮城県の出身と言うこともあり、大震災と原発事故に対して、
様々な表現をしていることから、今新たに大きく注目されてきているようです。
死を除け者にしない独特の感性で、彼が取り上げたのは宮城ではなく福島なのは、
震災よりは原発事故こそが、生きる事への大きな不安をもたらすからでしょう。
漠然と感じていた原発事故後の世界は、「番犬は庭を守る」と表現され、
現実の原発事故後の世界に、不思議な一石となって投じられたのです。
現実の方が後から来たからこそ、忘れられがちなバリエーションがあるはずで、
この小説はそんな意味で、少し風変わりなフィクションの世界を見せてくれます。

若い主人公ウマソーが生きるのは、すっかり放射能に汚染された世界で、
生殖能力の有無が人間としての価値を大きく左右してしまう、歪んだ社会です。
当たり前であるはずの生殖能力は、精子の数が多いか少ないかで選別され、
さらには性器の萎縮や奇形によっても、あからさまに選別されてしまうことで、
これを臓器移植で改善?することが、富裕層のトレンドにさえなっている。
あるいは放射能汚染によって疲弊した臓器も、家畜の臓器移植でリフレッシュして、
生殖能力の盛んな子どもを持って、生涯を楽に暮らそうとする人まで現れる。

こうした混沌とした世界の中で、ウマソーは彼なりに一生懸命生きるのですが、
時にはラッキーな思いをしたり、とんでもないひどい目にあったりする内に、
ある種の投げやりな感覚が、彼の内側に閉じこめられていたものを引き出します。
小説の物語は、飾り気のない簡潔な文章で次々に新たな展開を見せますが、
展開する出来事は奇想天外すぎて、SF小説を読んでいる感じになってしまいます。
だけどどんなSFも、起きてしまえば空想でも何でもない現実になるので、
原発事故後の今この小説は、どこまでが非現実かが曖昧な作品になっている。

さらに言えば、この奇想天外な物語を生きる主人公のウマソーの人生は、
僕らの人生と何かが違うのか、それとも何も違わないのかと考えたときに、
「どんな未来であっても・・・番犬は庭を守る」のタイトルは、とても切ない。
ウマソーに出来ることはあまりにも限られていて、だけど出来ることはあるから、
数少ない選択肢の中から、彼はやっとの努力で思いを遂げようと挑戦する。
自分に努力できることと、努力など何の役にも立たない現実とをかき分けて、
なんとか生き抜いていく彼の姿は、結局僕らの今の姿と何も違わないし、
命がけで守りたいものが何であるかを、読者に考えさせずにはいないのです。

読んだ一冊の本の書評と言うには、いろんな事を書いてしまいましたが、
この本を読んでいると、人間の可能性とは何か?とかを考えてしまい、
新たに別の「原発事故後の世界」を生きる人間の可能性を、考えてしまいます。
その様々な可能性を表現しようとすれば、小説に終わる筈はないのであって、
岩井俊二さんは、映画やウエブや小説や詩によって挑戦を続けているのです。
その一つの姿、表現の過程としてこの小説を読むとき、見えてくる世界は、
果てしなく広がる可能性と、僕らは何を選択して生きるかの覚悟の必要でした。
 
 
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