瓦礫報道から見えること
東日本大震災から1年が過ぎて、この一年間に流れた多くの報道に、
あらためて日本のマスコミの、不気味な側面に気付かされます。
まず不思議に思ったのは、2万人近い人が亡くなっているはずなのに、
あまた多くの報道写真や映像の中に、死者の姿があまりにもない。
それは良くも悪くも、日本のマスコミ報道がよく統制されている証で、
いわゆる良識を持って、生身の人の死を見せない了解があるのでしょう。
あらためて日本のマスコミの、不気味な側面に気付かされます。
まず不思議に思ったのは、2万人近い人が亡くなっているはずなのに、
あまた多くの報道写真や映像の中に、死者の姿があまりにもない。
それは良くも悪くも、日本のマスコミ報道がよく統制されている証で、
いわゆる良識を持って、生身の人の死を見せない了解があるのでしょう。
しかしながら我々人間は、どんな記録的な数字や大量の瓦礫よりも、
生身の人間の姿を通すことで、あらゆる感情をリアルに持つことが出来る。
今日この取り上げた写真は、たまたまネット上で見つけた一枚ですが、
僕は彼の手に自らの手を思うことによって、津波が我が身に押し寄せる。
差し伸べた手が、瓦礫の塊を突き破って空にすがりつこうとする、
この我が手が、命あるものの絶望とすがりと慈悲を感じさせるのです。
一人ひとりの人間なんて、嘆かわしいほどに微力な存在だからこそ、
近隣の人と手を取り合い、愛を持って繋がっていくことが大切でしょう。
それは決してきれい事ではなく、糞尿と屍にまみれた事であって、
机上の計算通りに行かないからと言って、悲観すべき事だとは思いません。
むしろ気になるのは、生身の人間よりも「かくあるべき」論を持って、
誰かが決めた道筋に、すべての人を従わせようとする力を恐れます。
膨大な資料映像の中に、人間の死体がないのが不思議とさえ思わない、
そんな報道統制の今のターゲットは、瓦礫処理かも知れません。
比較的放射能汚染のない瓦礫を運んできて、焼却テストを行って、
放射能は出ませんでしたから安全です!と連日繰り返し報道されています。
汚染されていない瓦礫を燃やして、汚染数値が出ないのは当然のことで、
そのことが、放射能汚染瓦礫を持ち込まない保障にはならないのです。
そもそも事故当時の福島原発には、どの程度の核燃料が貯蔵されており、
現在明確に残っている量はどれだけで、不明分はどれだけなのか?
不明分の放射能はどれだけの量があって、どれだけの危険性があるのか?
現在事故原発に残っている、使用済み核燃料を含む核燃料の量はどれだけで、
4号機の使用済み核燃料のプールなどは、次の地震に耐えうるのか?
日本中に運ぶ瓦礫と運ばない汚染瓦礫の、分岐点はどこにあるのか?
最低でもこの程度のデータ公開がなければ、安心して対応できないし、
安全な瓦礫を運んできて、安全を証明してみせるパフォーマンスには呆れます。
これでどうして「だから瓦礫を処理しても安全」だと言えるのか?
必要なのは安全ではない瓦礫を持ち出さない、拡散させない保障でしょう。
もっと人間的な感覚を持って、真面目に不安材料を払拭しないことには、
マスコミ政治不信は、修正の余地なく突き進んでいくでしょう。
新しい流れは無理なことではなく、一人ひとりが明確な意志を持って、
自分に出来ることをやれば、自然に出来ることなのです。
「やらないからできない」だけなのです。