「地蔵のこころ 日本人のちから」
図書館で、なにげなく新刊本のコーナーを通ったら、
みょうに気を引く本があったので、手に取ってみました。
玄侑宗久さんの「地蔵のこころ 日本人のちから」という本で、
手にとって読み始めたら、次々に面白くて止まらない。
これはもう読むしかない!と思って、借りてきて読みました。
みょうに気を引く本があったので、手に取ってみました。
玄侑宗久さんの「地蔵のこころ 日本人のちから」という本で、
手にとって読み始めたら、次々に面白くて止まらない。
これはもう読むしかない!と思って、借りてきて読みました。
青山俊薫老師の信州のお寺、でのセミナーとして、
3回連続で行われた講演の内容は、読めば読むほど面白い。
蝉時雨の時期とありますから、講演会は去年の夏でしょうか、
特に興味深いところには付箋を付けて、読み進んだら、
177ページの本に、付箋が12本にもなりました。
これでも遠慮して付けた付箋ですが、書いてある内容は、
第1話では あの世とこの世の境に立って ーお地蔵さまー
とあって、世界的にも珍しい、お地蔵さまだらけの日本文化を、
神道との関わりを匂わせながら、面白おかしく書いています。
僕が昨日の記事で、シマとタビのことを書いたのも、
この内容から刺激を受けて、妄想たくましく書きました。
さらに「マニュアルを嫌うお地蔵さま」「鬼の存在も必要」
「女性に宿るお地蔵さまの力」「すぐに、飛んでいきます」など、
どこを読んでも、玄侑さんの優れた洞察が心に響きます。
第2話では、両方を見据えて中道を歩く ー両行が支える国ー
とあって、「菊と刀」以来、日本人が世界的に独特な考えをする、
その独自性は、どこから来ているものかを検証しています。
現代の日本文化は、すっかりアメリカに迎合してしまっており、
何でも白黒をはっきりさせたり、善悪で分けてしまいますが、
日本古来からの文化では、神は善悪を併せ持っていた。
一件矛盾するようなことを、平気で併せ持ってしまうことを、
相補性として捉えて、両忘「不二」の心を日本人の心とします。
第3話は、善におけ[私]の成り立ち ー[私]について、よく知るー
においては、日本語では[私]にも4つの意味があるとして、
それぞれ、我、吾、自分、私、の違いについて考察しています。
さらに昔は、一人の人が生涯においていくつもの名前を持っており、
幼名、成人名、芸名、筆名などを持つことで、多様な有り様をした。
それなのに今は、欧米のパーソナリティを一つに見ることに習い、
一つの性格を通そうとするから、困難な病を発症すると言って、
本来人は、からっぽの「からだ」でしかないのが日本の知恵と言う。
なあるほど、どこを読んでも面白い話が次々に出てきて、
こんな講演であれば、できることなら直接聞いてみたかったし、
その内容をこうして本で読めるのは、まったくもってありがたい。
最後の方に、「風流とは人柄のこと」と書いた段落があり、
中国が唐の時代に、白雲守端禅師が使っていた言葉から、
「誰それの風流は殊勝なり」を持ち出し、風流の解説をします。
人間はからっぽの器であるから、そこに様々なものが出入りして、
私という現象を生み出すのだけど、何かに頑張りすぎると蒸し暑い。
気持ちの良い「涼しさ」とか「清らかさ」といったものは、
無意識にやってのけるときに、一番美しく輝くというのです。
何も反応できないのでは困るけど、熱心になりすぎるのも暑苦しく、
揺らぐ程度に反応して、手を差し伸べるのがいいと言います。
理想に走る虚空菩薩と、慈悲をもって駆けつける地蔵菩薩と、
その両行の中道を、強い意志を持って歩み続けることで、
からだに宿るいのちは活性化されて、充実した人生が過ごせる。
簡単に言ってしまえば、そんなお話しかと思いますが、
仏教の救いとは何か?まで、少し見通せた気がしました。
玄侑宗久さんの「地蔵のこころ 日本人のちから」情報は、↓こちらから。