消費社会と事実婚

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映画「サルトルボーヴォワール 哲学と愛」より
 
渡辺淳一さんの「事実婚 新しい愛の形」を読んで、
いろいろ思うことがありましたので、書いてみます。
結局僕は一度も結婚をしていませんが、若い頃には、
ちょうどこの本に書いてあるように、結婚が重く思われ、
縛られる意識が強くて、避けていたことは確かです。

僕はいつも、誰かしら女性とは付き合っていましたし、
女性が嫌いではなく、一緒に暮らしたいと思うこともあった。
だからそのまま、一緒に暮らせば良かったのかも知れませんが、
結婚となれば、本人同士よりも親兄弟や親戚の問題となり、
相手の女性との暮らしよりも、風習や慣例に縛られることが、
重く思われた理由だったんだろうと、理解できるのです。

恋愛相手や、人生の伴侶としての相手は欲しいけど、
自分の両親や親戚とさえ疎遠で、煩わしく思っていた僕は、
入籍して家を構える、制度としての結婚を避けていたのです。
そして新しい愛の形という“事実婚”は、その煩わしさがなく、
それでいて単なる同棲でない、本人同士には結婚なんだってこと。
これが現代の人に受け入れられ、数が増えているのだとすれば、
僕も確かに、その方がいいように思われたりするのです。

お互いの親類縁者と付き合う気がないなら、入籍の必要もなく、
好き合った二人が、双方の気持ちの合意で一緒に暮らせばいい。
特別に家を重んじて、家督を継ごうという意識でもなければ、
大金を掛けて式を挙げたり、入籍する意味がわからない、
そんな人が増えているのだろうと、容易に想像できるのです。
特に日本では、家制度の昔からある苗字を統一する法律もあり、
結婚と同時にどちらかが苗字を変える、奇妙さもある。

これが一昔前であれば、家は重要な生産の場でしたから、
一家の存続は重要で、女性が家の中心だったでしょう。
ところが現代のような消費社会では、家は消費するだけで、
生産は外ですることになっていますし、それはお金換算される。
つまりお金を稼ぐ人が偉くて、稼がない人は役立たずになる。
いきおい女性も外で働くようになりますから、家制度は必要ない。
まして親類縁者と付き合うような面倒は、避けたくなるのです。

生活が子育てまでお金換算され、家は消費するだけの場なのに、
制度だけが後生大事に家督を守る、家制度のままですから、
実情にそぐわない、様々な面倒が結婚制度につきまとう。
形式や制度よりも、お互いの気持ちを大切にしたいと思えば、
家制度の名残のような結婚よりも、事実婚を選ぶ人が増えるのは、
ごく自然な流れかも知れない、と思ったりするのです。

その上で今の僕は、新しい人間関係を大切にするために、
相手の両親や親類縁者とも、親しい友人のように付き合い、
お互いに助け合う、仲間になれたらいいと思うのです。
単なる消費者ではなく、みんなで自律した暮らしができるように、
生活に必要なものを助け合える、やさしい関係がいいなあ・・・ってね!