女たちの幸せづくり
社会変革の大きな流れの中に、女性の社会参画があります。
日本は国際社会で見れば、男女平等になっていない国であって、
常に韓国と共に、女性の地位が低い国としてランク入りしています。
よって一部のアラブ諸国と同じように、改革の要素は大きいのですが、
今年はアラブの春と言われるほど、アラブ諸国に変化が起こり、
女性の地位も格段に向上して、市民主体の国になりつつある。
日本は国際社会で見れば、男女平等になっていない国であって、
常に韓国と共に、女性の地位が低い国としてランク入りしています。
よって一部のアラブ諸国と同じように、改革の要素は大きいのですが、
今年はアラブの春と言われるほど、アラブ諸国に変化が起こり、
女性の地位も格段に向上して、市民主体の国になりつつある。
そうすると、タリバンのようにイスラム原理主義の強い国か、
韓国のように儒教意識が強い国でないと、女性の台頭は止まらない。
当然日本でも、女性の社会進出はめざましいものがあるのですが、
なぜか女性市民側からのパワーと言うより、政治主導だったりする。
さほど儒教意識が強いとも思われない日本で、なぜ女性意識は低いのか?
たぶん“奥ゆかしさ”と言うような、独特の文化があるからでしょう。
しかしこうした文化的要素を、特に女性が大切にするからと言って、
社会的な女性の地位が低いままでいいとは、やはり思われません。
それにもかかわらず、女性の社会進出が進まない理由として、
女性の社会参画にどんなメリットがあるか、明確な説明の無さがある。
つまり、なぜ男ばかりではダメなのか?が説明されないと、
「広い視野があれば、男の方が理性的な判断ができる」とされてしまう。
そこでもう一度、なぜ女性の社会参画が必要なのかを考えてみると、
IMFのラガルド専務理事(女性)が、面白いことを言っていたのを思い出します。
テレビ番組で、女性司会者が、
「女性がリーダーになることに、どんな意味があると思いますか?」
と問いかけたのに対して、
「女性は男性のように、リビドーに突き動かされることがない」
と答えていたのが、とても印象的でした。
日本では「英雄色を好む」なんて言葉に、表現されているとおり、
今思えば女性の人権を無視したような、社会通念がまかり通っていた。
政治家や経済界のリーダー像も、バリバリ仕事ができる代わりに、
女性を召使いと娼婦くらいにしか思わない態度を、容認してきたのです。
そのおかげで、日本は小さな国でありながら、めざましい経済成長を遂げ、
国際的な地位を築いてきたことは、良くも悪くも認めざるを得ません。
しかしそれ故に、今必要な社会変革を困難にしているのです。
かつての成功に囚われて、新しい時代に合わせた変革ができない様子は、
政治経済界のリーダーばかりではなく、日本中の津々浦々にあるものです。
今まで通りの価値観で、合理的な経済拡大を目指して疑わない人たちは、
リビドーの要求するままに、競争に勝ち抜くことを目指して疑わない。
豊かさは経済拡大の中にこそあると信じているので、この豊かさの追求が、
大切な生活環境を破壊しても、見て見ぬ振りをして平気なのです。
そこでリビドーに突き動かされない、女性感覚の導入が必要になってくる。
リビドーなんて使い慣れない言葉は、難しいと思われるかも知れませんが、
これは「突き進む欲望」くらいに思っていただければ、当たっています。
都会ばかりか多くの田舎で、地域興しとは経済の活性化を意味し、
経済活動を活発にさせるために、多くの予算が使われて当然なっている。
将来のまちづくりにおいても、経済活性化の要因を最大目標にして、
循環型社会の構築を目指す場合も、経済発展を促すものである必要がある。
お金にならないことは、結局は続かないので意味がないと思われる。
先日の南砺市型循環社会を考える勉強会でも、僕を含む男たちの議論は、
エコビレッジだエネルギーの循環だと言って、システムに意識が集中する。
そこで女性の発言は、障害者、高齢者、子ども、低所得者の側に立って、
この循環型社会は、弱者を幸せにするものでなくてはならないと言うのです。
リビドーに突き動かされるのではなく、幸せのあり方を考える、
これが求められている、女性の社会参画の意味ではないでしょうか。
日本を代表する、きわめて日本的な賢人の一人である宮沢賢治は、
「すべての人が幸せにならなければ自分は幸せになれない」と言いましたが、
この感覚こそ、現代から未来へ向けて、成熟社会が求めるべき感覚です。
他者を押しのけて打ち負かせて勝ち取る、アメリカ型の大量消費文化は廃れ、
子どもたちの将来に向けて、持続可能な循環型社会を構築していくとは、
単なる経済の話ではなく、新しい生活を築く物語の話なのです。
男ばかりでなく、女ばかりでもなく、大人ばかり、強者ばかりでもない、
助けが必要な弱い人たちにこそ、社会は手を差し伸べる必要があって、
新しい循環型のまちづくりは、弱者参画の市民協働社会になる必要がある。
女性による社会参画の必要性とは、単なる女性の人権に留まらず、
まったく新しい価値観による、社会建設の必要性を言っているのだと思います。
強いものに枷を掛け、弱いものを助けてバランスを取るのが新しい社会でしょう。
今日の写真は、自分で作った野菜を煮込んだものです。
生活を楽しむ豊かさは、何ものにも代えがたいですね!