濡れる濡れないの話し

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ノルウェーの森」での男女関係を、シンプルに見ると、
現代社会が少子化する様子が、少し見えてくる気がしました。
キズキは幼友達の直子と、そのまま恋人関係になりながら、
直子が濡れなかったことで、セックスが出来ないままでいた。
それが直接原因ではないにしても、キズキはそのまま自殺して、
直子はワタナベとの一夜で、初めて濡れて男を迎え入れる。
しかしそれは一回きりで、そのあとはまた濡れなくなります。

新しい子どもは、収入や予算で生まれてくるわけではなく、
男と女の愛情関係から始まる、セックスによって生まれてくる。
この当たり前のことを、もう少し詳しく検討してみると、
昔は男中心のセックスでしたから、男が勃起すれば成り立った。
女が濡れようと濡れていまいと、男さえよければいいのだから、
男の性欲をそそり、女は我慢してでもセックスした可能性がある。
セックスが成り立てば、子どもは生まれる可能性があるわけで、
これが女性には屈辱的な、男系社会の原因にもなっていた。

ところが時代が変わって現代では、女性にも主導権があって、
女性が濡れないことには、男性は押し入ってはならない。
濡れない女性に強引に押し入るのは、夫婦と言えども暴力です。
ここで生じる、男性中心のセックスと大きく違うところは、
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男が勃起すれば、女は濡れなくても子作りが可能なのに比べ、
女が濡れても、男が勃起しないと子作りが出来ない事実です。
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男と女は、セックスだけで求め合っているわけではないので、
様々な要因で一緒に暮らし、社会的婚姻関係も成り立つのですが、
その二人が性的関係を持つ可能性は、低くなっているのです。

子どもを増やすために、男社会に戻ればいい!と言うのではなく、
新しい時代に合わせた教育や、幸せの在り方の提示が必要で、
今の日本には、こうした根元的な問い掛けがないことが問題です。
愛情というものも、商業ベースの結婚や家族サービスではなく、
奇跡的に巡り会った二人の、求め合う気持ちの表現として、
身も心もさらけ出し合いながら、ぐちゃぐちゃに一体感を味わう。
そのような姿になれたときに、セックスも成り立てばいいのに、
この原始的な男女関係が、現代には希薄になった気がします。

憲法の条件にさえ、男女は双方の合意があれば一緒になれるのに、
実際の社会では、収入やら将来性やら年齢やら様々な条件があって、
古い慣習に合わせないと、条件が整わないと思い込んでいる。
結婚しても、子ども一人を育てるのにいくら掛かるか計算して、
セックスも愛情も置き去りにされたまま、金勘定の子育てをする。
これでは、身も心も一体となって生まれる愛の子はいなくなり、
合理的で損得勘定の社会になってしまうのも、わかりますし、
愛から生まれ出る子どもたちが減るのも、当然だと思うのです。

愛とセックスは、原初的に宇宙との一体感を味わって、
生まれてくる子は無条件に、宇宙の宝物として育てたい。
そうすれば、少子化など問題にもならなくなるでしょう♪