弱体化する人間

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最近の社会を見ていると、飛躍的に変革しているのが、
戦争、医療、交通、ゲームの世界で、改革が著しいようです。
50年前には夢のようだったことが、次々に実現しており、
海外旅行が日常茶飯事になって、日本中日帰りで往復出来るし、
不治の病とされた癌や痴呆症さえ、治療の道が開けています。
戦争の世界では、戦場に行くことなく破壊活動が出来るし、
不安を煽って税金を吸い上げる手法も、板に付いてきた。

このように高度に、テクノクラート化した現代社会は、
それではどれほど人を幸せにしているかは、疑問もあります。
社会的な貧富の格差を問題視する人は、多くなりましたが、
この貧富の格差も、概念自体が誘導的に作られたものでしょう。
人間を自然界で循環する、命連鎖の一部と受け止められれば、
格差など意味をなさないのに、何でもおカネ換算するから、
換算されたお金の多少によって、貧富の差を実感させられる。

このようにおカネ換算でしか、生きる術がわからなくなると、
生命循環の基本的要素である自然環境を、破壊してでも、
お金さえ稼げば豊かになると思い込む、盲信者が増えてくる。
彼らは法律に守られながら、多様な生命を大量殺戮し、
それで得たお金で、自分たちだけは自然豊かな所で暮らす。
このカルト的経済拡大信者こそ、人類を窮地に追い込むのに、
人々は逃れる術を知らないかのように、翻弄され続ける。

ゲームの世界では、次第に人間感覚を取り込む要素が増え、
人の感覚を「活かさず殺さず」取り込むことが、売りになる。
五感のあらゆるものをデータとして、ゲーム世界に繁栄し、
中で暮らす人間を育てることで、その人の生命力を吸い上げる。
医療の世界では、保険と金融界がタイアップして築きあげた、
安心の医療ケアを受けて、ひたすらお金を支払って生き続ける。
坊主顔負けの、死ぬに死ねないお金を支払う顧客なのです。

こうした改革を受け入れ続けていると、人間は弱体化して、
常に外側からのケアなしでは、何も出来ない人が増えてしまう。
可能性の自然界から引き剥がされて、閉じたプロダクツ人になり、
さあ生きよう!と思うことさえ、ノウハウが必要になってくる。
実によくできた人間の家畜化ではありますが、満足は少なく、
このシステム内では、いくら成功しても待っているのは不安です。
なぜなら、常に行き止まりのプロダクツ内にいるからです。

人間は本来自由で、開放的な空間で様々な試みをします。
まだ子どもで、自由に生きる能力が発揮できないときには、
ゲームのような閉じられた世界で遊ぶのは、安心なのですが、
成長して自由に活動できるようになると、不自由さを感じ出す。
そのとき自由に羽ばたける空間が必要なのに、さらに閉じられた、
産業経済の一部に組み込まれることしか、選択肢がないと、
収まりきれない生命のエネルギーが、どこかで歪むでしょう。

いつの時代であろうと、どんな場所にあっても、
既成のシステムや価値観は、新しい人には不自由で、
常に外側の世界が必要とされているのです。
それを目指さない新しい命は、すでに弱体化して、
既成の社会に食い物にされるしかないのかも知れません。
実は、世界はもっと広くて、味わいに満ちているのに・・・