権力統治社会から協働参画社会へ
ある一つの現象の真理が見えると、それが鍵となって、
様々な現象の内側にある真実が、急に開けて見えてくる。
そうした経験を持つ人は多いと思いますが、最近になって、
今まであまり関心のなかった、DV問題を考えるうちに、
今の日本社会が持つ閉塞感の原因まで、見える気がしました。
それは、すでにパワーコントロールが古くなっているのに、
新しい対等の人間関係が出来ない人の、軋みだと思うのです。
様々な現象の内側にある真実が、急に開けて見えてくる。
そうした経験を持つ人は多いと思いますが、最近になって、
今まであまり関心のなかった、DV問題を考えるうちに、
今の日本社会が持つ閉塞感の原因まで、見える気がしました。
それは、すでにパワーコントロールが古くなっているのに、
新しい対等の人間関係が出来ない人の、軋みだと思うのです。
上の図は、根津さんに紹介された、森田ゆりさんの本にある図で、
左側がDVを起こす人の精神構造を、分析的に表したもので、
右側はそうでない、対等にあるべき男女の姿を示したものです。
実は左側の図にある様々な価値観だって、百年前には普通のことで、
今でこそ男尊女卑としか思えない、男の勝手な責任感なども、
むしろ“男らしさ”として、社会で奨励されていたことでさえある。
男は家長として責任を持ち、家族を統治して秩序の維持にあたるので、
そのためには、多少の横暴は許されて当たり前だと思われていた。
それが戦後の民主主義に変わったときに、表面だけが変わり、
社会全体が、なぜどのように変わる必要があるのか理解されない、
あるいは知識としてしかわからず、今の現象があるような気がします。
こうした現象は、決して家庭内のDVにとどまるものではなくて、
この国の政治手法においてさえ、同じような間違いを起こしている。
難しい政治問題が起きると、すぐに強いリーダーシップを求め、
自分こそが当事者であるのに、他人事として批評ばかりしている。
この国の主権者は俺たちだけど、解決するのは自分じゃないと考え、
他人の責任ばかりを追及して、自分はいつも否認するのです。
こうした基本的な価値観が、それではどう変わればいいのか?
右側の図では、「平等の輪」と書かれていますが、この“平等”も、
それぞれの個性を無視した表現にも見えるので、“対等”とします。
この表現の違いに関しては、以前にこのブログで議論したことがあり、
それ以来僕自身も、平等よりは対等が正しいと思って使っています。
各自が同じではない多様な個性が、等しく認め合うという意味で、
みんなを同じに見てしまう平等とは、一線を画して考えます。
そうして考えれば、異質なものが同じ目標を持って参画し協働する、
社会の在り方としての協働は、家族の在り方としても見えてくる。
男性的で経済優先の、孤立しながら競争させる脅しの社会から、
お互いが対等に話し合って、思いやりと同意による安心できる社会へ。
これが大きな流れとしての、新しい時代の価値観なのですから、
僕らは強いリーダーシップではなく、粘り強い話し合いが必要なのです。
強いリーダーシップを望む人は、自分に責任を持てないのでしょうが、
だからと言って、他者を力でコントロールすることは間違いなので、
この事情がわかっていれば、DVも虐待もなぜいけないかがわかります。
同じように、国民の不安を煽って軍備の増強や原発を増設するなど、
弱者を蹂躙するような政策が何故いけないかも、明確にわかるのです。
新しい時代思想は、この10年で急に出てきたのではありません。
千年二千年の長い歴史の中で、その時々の必然性に流されながらも、
全体として、「力による関係」から「話し合いによる関係」へ、
変化し続けてきた流れの中で、常に可能性として存在していたのです。
望むべき方向へ、命あるものたちがそう願い、そのように生きれば、
人間の願いは、その生き方に歩調を合わせて必ず実現する。
これこそ、長い人類の歴史が僕らに教えてくれることなのです。
(※ 今日の画像は、文字が確認できる程度に大きくなるようにしてあります。)