コミュニタリアニズムでの物語性

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数年前から公共哲学に関心を持つようになって、
それでも「政治哲学」なんて何も知らなかったのですが、
池田晶子を知って、あるいは小林教授の公共哲学に参加して、
改めて、現代社会を哲学的に考えるようになっていました。
そこへ始まったマイケル・サンデル教授の「白熱教室」では、
今まで疑問に思っていた多くのことが取り上げられていたので、
毎回楽しみに見ていたのですが、それも来週が最後です。

その来週は、東京平和映画祭のために家を留守にするので、
翌週の再放送までは、番組を見られなくなるのですが、
昨日の「愛国心と正義」の課題は特に興味深かったので、
今のうちに、少しでも感じたところを書いておこうと思います。
実は5月30日の記事で書いた「格差原理とマネー社会への疑問」
の中で、最も気掛かりだった懸念が、ここで論じられており、
考え方が理解できたので、それを書いておきたいと思うのです。

5月30日に僕は、次のような疑問を書きました。
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「最も恵まれない人の便益を図るときにのみ正義として許される」
 と言うとき、この「最も恵まれない人」は誰を指すのか?
 こうした便益がお金で換算され、お金を使って行われる場合、
 経済のグローバル化と金融の自由化による世界通貨は、
 最も恵まれない国々の、最下層の人の便益に使われるのか?
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これに対して、何人かの方から確かなコメントをいただき、
「現政府を支持する意味で自説を主張しているのではありませんから、
貴方のアプローチは彼らの主張とはポイントが合っていない
ように感じるのですが?」との指摘は、その通りのものでした。
それでも僕は、「現実に拡大するグローバル・マネーが孕む問題を、
公共哲学で議論できなければ、視点不足では?」とまで反論して、
自分が疑問に思ったことを、争点にしたい気持ちが強かったのです。

ところがその後の授業では、再びアリストテレスの視点に戻りながら、
政治の目的とは何かを考えることによって、誰のための政治か?が、
改めて議論され、「所属する共同体内の“善”」が出てきます。
ここから、昨日の議論となった問題に繋がると思うのですが、
複数のコミュニティに属する現実的人間は、何を優先して判断するのか?
愛国心と人類愛的な「善と善が衝突する時」どちらを優先すべきか?
こうしたきわめて現実的な、やっかいな問題に直面するわけです。

これこそ、僕が5月30日に書いた疑問と同じことであり、
サンデル教授の授業は、いつのまにか僕の疑問にも迫っていたのです。
そして予想通り、「こうすればいい」と結論があるわけではなく、
多様で様々なコミュニティの価値観を認める原則自体の中に、
道徳的な“善”の判断は、必ずしも普遍的な真実としてあるのでなく、
その多くを、特定コミュニティの物語性に依存していることを指摘します。
いかなる理論的善悪も、物語性を抜け出すことは出来ないのです。

すると面白いことに、この物語性から逃れて自由であるためには、
再度自由主義が唱えたものが何だったのかを思い出す必要が出てきます。
リバタリアニズム」→「リベラリズム」→「コミュニタリアニズム
と辿ってきた議論は、もう一度リバタリアニズムへと戻るのですが、
これは単なる回帰ではなく、お互いを補完するものとなるでしょう。
この環的な関係を理解することで、多くの問題解決の糸口にもなることが、
もしかしたら、現代の政治哲学の到達点なのかも知れません。

愛国心も家族愛も、物語性なくしては真実味を持たないのですが、
物語性とは、人間が創り出すことの出来る“可能性”でもあるでしょう。
だとすれば、僕らはこの“物語性”をより理想的なものにすることで、
原状に伏しない、真に豊かに共生できる社会を築く可能性を秘めているのです。
僕は今まで、かなり直感的に物語性の大切さを言い続けてきましたが、
今回サンデル教授の一連の授業を見て、その意味を確信できたと思います。

願わくば、こうした真剣な議論が、それぞれの生活地域で活発になり、
どこかの大きな目論みに振り回されない、確固たる基盤になって欲しい。
それが地域主権の意味であり、自立共生社会の鍵かとも思うのです。
サンデル教授、小林教授、そしてNHKによる番組編成に感謝します。
 
 
 
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