「偶有からの哲学」

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このところ最も注目している哲学者の一人である、
ベルナール・スティグレールの著作で、昨年翻訳された、
「偶有(アクシデント)からの哲学」を読みました。
副題に、~技術と記憶と意識の話~ とありまして、
人間の技術がもたらした“第三の記憶”にまつわる話です。

彼はプラトンに始まった哲学の流れを踏まえつつ、
カントの「先駆的分析論」から、三つの綜合を取り上げます。

(A)直感における想起的覚知の綜合、→イデア的認識。
(B)構想力における印象再生の綜合、→音楽的認識。
(C)概念において再認識する綜合、→技術的認識。

それぞれを、第一次、第二次、第三次過去把持としますが、
この第三次過去把持こそ、映像や音楽を再生する技術によって、
認識することが容易になった“第三の記憶”です。
基本的には、文字として記録された意識の外在化に始まります。

一般には「技術的なことは哲学ではない」との認識から、
今まで、技術を哲学的な視点で捉える観点が抜け落ちていた!
として、彼は今までの哲学に、新たな視点を取り入れるのです。
“徳”とは何かを議論した「メノン」のパラドックスに対しても、
ソクラテスは「前世で知っていた徳を忘れているだけだ」としますが、
この忘れていたものを思い出させるものが、外在化した文化で、
これを担うものこそ、技術に他ならないと捉えるのです。

人間が他の動物のようには決まった特質を持たず、
自分たちの行く先について、一致を見いだせないからこそ、
互いに争って、人間自身の生存さえも脅かしている。
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このようにして自滅的道を歩む人間を、見かねたゼウスは、
人間の魂にディケ(正義)とアイドス(恥・慎み)を与えた。
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こうした神話から、人間は本来的には限度を持たない生き物で、
自ら法を作って、法の解釈を通じて自らに限界を当てる必要がある。
これが人間の正体だと、捉え直していくのです。

ここで重要なのは、法はイデア的な規則でも規律でもなく、
「何にもまして問いかけ ~ 解釈すべき問いかけ」だとの認識です。
そして解釈の問題とは時間の問題であり、人間である!とは、
他の動物のように、存在自身の中に答えがあるのではなく、
自分で作り上げる、補綴物の只中に可能性がある存在だと言うこと。
技術による外在化と、解釈する現勢化によって在るってことでしょう。

そこであらためて現代を見ると、記憶技術による新しい事態がある。
CDやDVD、あるいはマスコミで繰り返される“時間の流れ”は、
本来は受け手の個々人が考えるべき特異な個性であったものを、
商品化された特別な物に姿を変えて、個人の固有な時間を奪っている。
産業化は、意識の時間の流れを条件付けして、消費を促すので、
「みんなその歌を知っている」状態を生みだし続けるのです。

本来何ものにも代えられない個性である人間が、特異性を奪われ、
個々人の欲望が、顧客のニーズにすり替えられてしまうとき、
人は耐え難く欲求不満になり、不安定な精神状態になってしまう!
こうした分析で、スティグレールは現代の危機の正体を捉えます。
産業化によって埋没していく個人と、個性を生きようとする人とは、
明らかにそれを認識出来ていない“蒙昧”によって蹂躙されている。

社会にはその統一性が必要なので、象徴の仕組みはあったのですが、
19世紀までは知識人の活動が担っていた、この象徴の仕組みも、
20世紀からは、この知識人の活動さえ生産世界に飲み込まれていく。
ここに一つの時代が終わり、新しい時代は既に始まっている。
人々が意識しないままに始まってしまっている、革命的な時代を、
人間はいかに外在化の技術を使って、把握していけるのか?
これがこの本の課題であると同時に、作者の呼びかけなのでしょう。

彼は現代の科学技術を、
プラトニズムにおいて、事物の本質が形づくっていた模型の宿る
 天から降りてくる真理の基準によっては、もはや導かれない」
として、
フィクションでしかない科学技術の、善し悪しを見分ける必要を、
神学的問題にまで進めて考える必要を説いているのです。