もう一つの「時間泥棒」

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忙しくて時間が無くなるだけが、時間泥棒によって生じる貧しさであるなら、
たとえば失業者のような忙しくない人たちは、時間を盗まれていないはずなのに、
豊かな時間を持っているかと言えば、そうではなくなっているように見える。
 
それは何故なのか?
 
ここには、人類史上かつてない、時間の産業化によってもたらされた、
新種の時間泥棒の問題があることを、知っておかなければならないようです。
エンデが「モモ」で描いた、時間を預かってカネを稼ぐ銀行家泥棒とは違って、
スティグレールが「映画の時間(と生きづらさの問題)」で言及したような、
もう一つの時間の奪われ方に関わる問題なのです。
 
奪う・奪われる!の関係なら、奪う方にこそ問題があるのだから、
奪われ方を云々言うよりも、奪う方を注意すべきだと思う人もいるでしょう。
だけどこの問題は、そう簡単ではないのです。
なぜなら、奪われる人が自ら好んで奪われる方へ身を置くのですから。
 
たとえば僕らは、何が入っているかわからないような清涼飲料水の中から、
企業が用意したCMで流れる、快い歌やメロディーや映像に合わせて、
特定の商品そのものに、そうした幻想の一部を期待して購入してしまいます。
提供された心地よい時間を味わうことで、意識の中に仕組まれた連鎖が入り込み、
知らない内に、それが本来の自分の意識に取って代わるのです。
 
この商品化によって寄生した、個人の中に巣くう幻想と時間の連鎖は、
本来の自分ではないが故に、常に満足出来ない状態でしか終わることが出来ず、
欲求不満となり、また次の幻想を求めて、心は落ち着かない状態に荒廃していく。
そしていつのまにか、気が付けば自分の時間を泥棒されてしまっている。
これが、もう一つの時間泥棒の正体と現実であり、
忙しくないはずの失業者や有閑者たちにも起きるのです。
 
銀行家の時間泥棒に対して、商品化の時間泥棒とでも言いましょうか・・・
 
さて、それではどのようにして、このもう一つの時間泥棒から身を守るかと言えば、
何でもおカネに頼る、何でもおカネで済ます消費者にはならないこと!で、
自分たちの生活を、自分たちの手間暇に、取り戻すことで実現出来るでしょう。
ちょうど僕らが「まみあな」活動で目指した、生活を取り戻す試みです。
 
そして同時に、あらためてクローズアップされてくるのが、
現代のマスメディアが、全面的に企業収益を目指す媒体になったことです。
産業化された商品イメージを、消費者に植え付けることが至上命題となって、
テレビ番組や新聞紙面は、商品広告の合間に娯楽を提供するだけになってきた。
だからニュース情報まで、政府公報や企業広報と変わらなくなってしまい、
巨大企業化したマスコミは、客寄せチンドン屋になるしかなかったのでしょう。
 
そうとわかった以上、僕らは頭を切り換える必要があるのです。
経済拡大のために作られる、商品イメージ、企業イメージを信じないで、
それは悪い冗談かお遊びとしておき、自分たちの生活は自分たちで構築する。
問題を起こさない生き方を模索し、自分の生き方として身につけることで、
もう一つの「時間泥棒」に、自分を盗まれないようにして暮らせばいいのです。