フェリーニの「道」

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このところ寒いせいか、体調が活性化していなくて、
一日外で用事をすると、翌日はどこか体調が悪いです。
もともと体が弱くて、50歳まで生きると思っていなくて、
今は生きていることが、余生みたいなものだと思うから、
今朝も目覚めたことには、感謝していますけどね!

そんな冬の楽しみの一つが、やっぱり映画で、
自分が知らない昔の風景が見たいなあ!と思って、
古い映画の何本かを借りてきて、順番に見ています。
図書館で貸し出していた、新藤兼人の「原爆の子」では、
原爆が投下された後、6年目と思われる広島の風景で、
平屋の並ぶ町を、馬が引く荷車が走っているのが新鮮でした。

だけど映画の内容は、被曝の恐ろしさが認識されておらず、
ただピカドンで親を失った子どもたちの境遇を嘆く、
今見ると「それだけでいいのかなあ?」って映画でした。
ところがもう一本、これはTSUTAYAの名作100円シリーズで、
フェリーニの「道」を借りてみたのですが、これは良かった!

映画も主題歌も、あまりにも有名で、有名すぎて、
わざわざ見るまでもないように思っていた作品でしたが、
見終わってしばらく考え込み、いろいろ気づかされました。
力が強くて、一人で大道芸人をしながら生きているザンパーノと、
知恵遅れで、一人では生きていけないジェルソミーナの物語り。

そこには、「まみあな」で地域通貨を使った時の課題、
たとえ地域通貨であっても、働きの良い人だけが富を蓄え、
働きの悪い人は価値がないように見える、このジレンマは何か。
つまり、一人で生きていけるザンバーノは価値があって、
一人では生きられないジェルソミーナは、価値がないのか?
現代なら、金を稼げない人間には価値がないのか?ってこと。

日本ではその後、なにかの映画のキャッチコピーで、
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」
なんて言い回しがもてはやされて、ちょうどバブルの経済成長もあり、
誰しもが、強くなろう!カネを稼ごう!と頑張ってしまったのです。
だけどそこで失われたものが何だったのかは、あまり検証されていない。
それがこのジェルソミーナの価値だったのではないかと、思ったのです。

もしも強い人間しか生きられない!強い人間こそ価値がある!とすれば、
人々はみんなザンバードのようになり、力づくで自分の思いを遂げ、
だけど結局幸せにはなれずに、ジェルソミーナを思って泣くことになる。
強いものは、「優しくなければ生きている資格がない」のではなく、
弱いものと一緒に生きることによってしか、自分を活かせないのです。

強いものも弱いものも、男も女も、
片方だけでは価値がなかったのです。

男女対等も、共生社会も、福祉国家も、
すべてはこの糸で、繋がっていたのです。



フェリーニの「道」淀川長治解説付きで、1500円で売っていますね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001O4J9S0?ie=UTF8&tag=isobehon-22