小説 「本牧百貨店」Ⅲ-2

「記憶の初め、私は十九歳でした。まだ学生で、一年間パリへ留学したのですが、そこで知り合ったシリルという画学生と恋をしました。留学の期限が切れて、東京へ帰らなきゃいけない日の前日に、私はプロポーズを受けました。けれど彼もまだ学生でしたし、私もそのままでは生活が出来なかったのです。
 一日中、セーヌの河畔で躰を寄せ合ったままでした。雨上がりの街路樹が、心を痛めて泣いてくれるかのように萎れていて、私はじっと水音にばかり耳を澄ませていたのを覚えています。決められた通りシリルと別れ、東京へ帰ったのですが、彼への思いはつのるばかりで忘れられはしませんでした。
 一週間後、シリルの方が東京へ来てくれました。ひと月を東京で暮らし、学校を卒業したら一緒に東京で暮らそうと約束して、彼はパリへ帰ったのです。約束通り翌年、グラフィックデザインの技術を身につけた彼は、私の待つ東京へ来てくれました。私は嬉しくて目がくらみそうでした。
 しばらくのあいだは、シリルも日本語が不自由なために、いい仕事がもらえなくて苦労しました。それでも横浜の郊外にアパートを借りて、やがて長女の茜が誕生した頃には、彼の仕事もすっかり順調になって、私は毎日彼を手伝いながら子供の世話をしているだけで幸せだったのです。
 ごめんなさい、なんだか涙が出てくるわ。私にはどうしても、あれが現実のことじゃなかったなんて思えないんです。ひどい話だわ。私はちゃんとお腹を痛めて茜を産んだのです。二番目の子の仁だって、ちゃんと産みました。私が、確かに産んだのです。それが目を覚ましたら何も残っていないなんて、こんな馬鹿なこと、どうやって信じればいいの。
 悪夢だわ。これが現実だなんてひどい夢よ。ペテンだわ。茜も仁もちゃんと育てたわ。二人とも大きな病気はしなかったし、仁はサッカーに夢中だったのよ。茜だってそれはきれいな娘に育ったわ。ボーイフレンドだって何人もいたわ。夢じゃないわ、馬鹿なことは言わないで。私が嘘をついているって言うの。冗談はよして。茜はちゃんと結婚もして、今度はあの子がパリへ行ったわ。そうじゃない。だんなさまは日本人だけど、貿易のお仕事でパリの駐在になったのよ。だから私はシリルと二人で、久しぶりに懐かしい街へ行ってみるつもりだったのよ。それなのに、なんの前触れもなしに、仁の就職が決まったって報告を受けたと思ったら、突然みんな消えてしまったわ。何もかもみんな。
 馬鹿にしないでよ。こんなひどい話ってないじゃない」

 中年まじかの女の顔は紅潮し、青ざめ、声はヒステリックに震えていた。
 サキにもこの女の苦痛は痛いほどによく分かったが、適当な慰めの言葉は浮かんではこない。肩に手を掛けてなだめるには距離があったし、そうかといってこのままにしておけば、やおら発狂するのではないかと思われるほど興奮の様子を見せ始めていた。
「もう一度、続きの生活を体験なさってはどうですか」
 サキはやっとのことで妙案を思いついて言ってみた。
「だめよ、出来ないって言ったわ。えらそうに、時は戻らないのですって言ったのよ。二度と同じ場所へは行けないんだ、って」
 女の声が急激に冷えていくのが分かった。
 顔の表情から精彩が無くなり、サキが最初この部屋に入ったときに見たと同じ無気力な姿だけが残った。まさに分裂症の症状に違いないと思われた。今にもまたどう変わるかも知れないと思うと、サキはうっかり足を組み替えるのもはばかれる気がした。

「どうもお待たせしました」
 そう言ってドクターが顔を出したときには、もうすっかりもとの静寂が戻っていた。
 サキは依然として緊張していた。しかしともかく、女は診察室へ消え、彼は正方形の部屋の中でひとりになった。
 水晶の発振に合わせて時は過ぎていったが、サキの緊張はなかなか解けてくれそうになかった。ここにいると、自然に治る病気も悪化するのではないかと思われ出した。心臓がむやみに早く打ってみたり、胸が痛くなったり息が苦しくなってみたり、そんなことのすべてがこの部屋のせいではないかと思われ始めた。しかし、もう帰ろうとは思わなかった。彼の好奇心が、この女の体験した生活の正体について、あるいは今の彼女の病気との関係について、是非一度ドクターから話を聞いてみたいと思い始めたのだ。
 女は二十分ほどで診療室から出てくると、ごく普通に、マーケットや街で見かける婦人が知人を認めて挨拶するのと同じような調子で、軽く彼に会釈をして帰っていった。入れ替わりにサキが診療室に入り、ドクターと向き合った。
 患者の個人的なことは話してもらえなかったが、その代わりの一般的な示唆として、彼女の場合は精神病理学で言うところの『危機』、すなわち重大な生活の変化をあまりにも急激に大量に体験したために、基本的な人格そのものがパニックに陥ったのだと説明された。
「あなたが、あの女性からあらましをお聞きになったようだからお話しするのですが、もしもですね、彼女の生活体験がもっと後、つまり二人の子供もそれぞれの家庭で幸福になって、年老いて、ご主人もお亡くなりになったようなところで終わっておれば、彼女のショックもこれほどではなかったのですよ。ちょっと終わりのタイミングが悪かったわけですね」
 ドクターはサキの症状を一時的な過労と診断し、次の患者がいないことを確かめてからいくらかの話し相手になってくれた。
「実は私も体験コースのプログラミングに参加したことがあるので言えるのですが、普通ああいった結末というのは、参加者が前もって希望したとおりのことなんです。ただ参加者というのは、体験が終わってからのことまでは想像がつきませんから、その辺のケアまでは気が回らないわけですね。そうかといってそんなケアを会社側が前もって計算してやるとなると、今度は客の望むイメージに反するようなものを提供しなきゃならない、ということにもなるんですよ。その辺が難しいところでしょうね」
 サキはいくらか事情が分かってきた。けれど一番の疑問が少しも解けない。
「しかし先生」
 と彼は注意深く、純粋に理知的な好奇心であることを強調しながら尋ねた。
「私も多少は精神医学の知識を持っているつもりなんですが、それほど現実と混同してしまうような事態を、しかも何十年という長い年月の体験を、一週間の睡眠のうちに確実に植え付けるなんてことが、実際に可能だとはどうも信じがたいのですが」
 ドクターは笑いながら答えた。
「それは私だって信じがたいですよ。しかしそれなら、まだ電話などなんのことか知らない人達の家に電話線を引いて、これで世界中の人と話しが出来ると言った場合、彼らはやはり信じられないでしょう。それと同じことだと考えるより仕方がないと思いますよ」
「それでは先生は、この生活体験コースの科学的な根拠をご存じなわけですね」
 サキは思わず身を乗り出した。この事実をなんとかして、自分の理解の及ぶ範囲に取り込んで安心したかった。
「確かに一通りの説明は受けているのですが、まだ今のところ、私なんかには分からないとしかお答えできないところもあるのです。たとえばあなたは先ほど一週間の睡眠とおっしゃいましたが、実際には参加者はずっと眠っているわけではなくて、毎日ほとんど規則正しく起きて生活しているのです。
 おわかりかと思いますが、人は過去を思い出すとき、その重要なポイントだけを思い出しているのであって、あったことを逐一全部覚えているわけではないのですが、それでも過去の事実とそうでないことの区別は付けることが出来るんですね。同じように、参加者はその一週間のうちに、思い出すのに重要なポイントだけは実際に体験もしているのですよ」
 サキはまた頭痛が盛り返してきた。
「それじゃたとえば、さっきの女性の重要な記憶のポイントになっている、二人の子供の出産というようなことはどうなんですか。まさかそれを実際に体験したとは思えないのですが。
 ドクターは皮肉っぽく笑って答えた。
「あなたは、体験ってどういうことだとお考えになりますか。たとえば、ある偶然で思い出す自分が生まれる前の体験とか、あるいはまだ産まれていない子供の頬にキスをするといった、すなわち今ではない時の彼方にある体験というものを、深くお考えになったことはおありでしょうか」
 サキの頭は限界に達し、苦痛に顔がゆがみ始めた。
「これはどうも、あなたは過労でここへいらっしゃったのに、これでは治療どころかかえって悪くしているようだ。もうこの話はやめましょう。あなたにはいい薬がありますよ。すぐに処方箋を書きますから、これを持って指定の薬局へ行って下さい」
 サキは好奇心を断念してドクターの言葉に従った。
 もうクリニックも終わりの時刻なのだろう。受付嬢は帰り仕度を始めていたし、入口のドアの外には『CLOSED』の札がぶら下がっていた。
 広い通路のガラス窓越しに外を見ると、長い夏の一日もようやく暮れ色に染まり、細くちりぢりに切れた雲が茜色に輝きながら全速力で飛んでいた。このビルの高層では雲までが加速され、ばらばらに砕け散るかのようだった。