小説 「本牧百貨店」Ⅲ-1

  Ⅲ

 サキはまたひとりになった。
 あまりにも時を移動しすぎたのか、疲れていた。
 心臓病でもないのに掌が汗ばんで、軽いめまいさえ感じた。体重を計れば五キロは減ったろうと思えるほど、躰がげっそりとして感じられる。なにしろ三時間のうちに何年もの時を過ごしてしまったのだから。
 サキは正面入口のホールで小人のピエロからもらった、クリニックのサービス券のことを思い出した。財布に入れたまま持っていたはずだ。さぐってみると確かにあった。
 本館二十二階でエレベーターを降りた。
 外科、内科、放射線科、神経科、消毒液の匂い。
 サキはやたらと目が重いのにも気が付いた。通路をぐるりと回って、サービス券指定の相談所の扉を開けた。
 小さな受付があった。
「先生は今外出中で、三十分ほどお待ちいただくかも知れませんが、よろしいですか」
「かまいません、お願いします」
 サキはサービス券を差し出した。
「サービス券の方ですね。それじゃこちらに、住所とお名前をお願いします」
 黄色い長方形の整理カードが差し出され、サキはゆっくりとていねいに記入した。
 待合室と書かれたドアを開けて中に入ると、中年まじかの女がひとり、ぼんやりとソファーに腰掛けていた。どちらからともなく軽い会釈をした。
 ベージュ色の床にベージュ色の天井で、壁までが細かいブロック模様のベージュ色だった。茶色の脚のソファーには真っ白い布カバーが掛けてあり、やはり茶色のテーブルには白いレースのクロスを掛け、その上に数冊のグラフ雑誌が置いてあった。後はモネのものと思われる静物画が一つ、殺風景な壁に掛けてあるだけだ。ドアを閉じるとまったくの正方形の部屋だった。
 女はただ腰掛けていた。グラフ雑誌を手に取るでもなく、うつろな目と顔をして、ソファーに深々と埋もれるように、いくぶん身を小さく首を重そうにして座っていた。サキはテーブルを挟んで斜め前のソファーに腰掛けた。三十分も待たされるのなら帰っても良かったのだが、なにしろ頭がぼんやりとしてめまいさえする。ここでしばらく休んで、それで頭がすっきりとさえすれば、別にクリニックはどうでも良かった。
 しかしこの正方形の待合室は、さほど心の落ち着くような場所ではなかった。
 換気は充分にされているし、部屋の温度も暑くもなければ寒くもないほどにちょうどいい。ただし一カ所も窓がない。出っ張りもなければへこみもない、まるで正方形の箱だ。閉所恐怖症でなくても息が詰まるような気がしてくる。分かってる分かってる、もちろん換気は充分にいいのだが、肺がする呼吸ではなくて心がする呼吸の方だ。そいつが少しばかり息苦しいと言ってるんだ。
 サキはしっかりと目を閉じた。要するに見えなければいいと思ったのだ。けれどじっと目を閉じていても耳の方が正方形を感じ始めた。彼は前にいる女性に変に思われないよう、さりげなく両耳をふさいでみた。しかし何の解決にもならなかった。頭の中が正方形になってきたのだ。これは正真正銘の病気になったのかも知れないと思われてきた。さっと手を動かしただけで、空気までがざわざわと騒がしかった。

「大丈夫ですか」
 と女が声をかけた。
「たいしたことはないんです。ちょっと疲れが取れないだけなんですよ」
 サキはいかにも肩がこっているように首を動かして見せた。
「はやく先生がいらっしゃればいいですのにね」
「三十分ほど待つように、受付の人が言ってましたから、もうしばらく待たされるでしょう」
 声が四角い空気をかき乱したことによって、サキはいくらか落ち着きを取り戻して答えた。
「あら、私にも同じことを言ってましたわ。あなたより二十分も早く来てますのに」
 女は特別怒るでもなく、やんわりとそう言った。
「なあんだ、じゃ、いつになるか分からないんですね」
 サキはあらためてその中年まじかの女性を見た。ごくありふれた格子模様のスカートにプリントのブラウスだった。
「もし具合が悪いようでしたら、ほかのクリニックへいらした方がいいんじゃないかしら」
「いや、それほどのことじゃないんですよ。普段はこれくらいでクリニックへなんか来ないんですが、今日はサービス券があったので、一度覗いてみようと思って来てみただけなんですから。僕はともかく、あなたは大丈夫なんですか」
 小さな声で話していても、声は四角い部屋の中でひときわ大きく響き立てた。なにしろほかにはかすかに空気の動く音しかしないのだ。虫一匹でも迷い込んで羽音を立てれば、さぞかし大げさに響きわたるに違いない。
 女の衣擦れの音が、正確に細かい躰の動きを伝えている。
「私はもうほとんどいいんです。ここのオレンジ館の、一週間で百二十万円からの生活体験コースというのがあるんですが、ご存じかしら。それに参加して戻ってから、なんて言えばいいのか、毎日の生活が無気力になって、仕事が出来なくなってしまったんです。それでこのクリニックへ来て、もう二ヶ月くらいかしら。この頃はようやく、簡単な仕事くらいは出来るようになったんですよ」
 サキの好奇心が大きく動いた。彼は自分のからだの具合の悪さをないがしろにしても、この新しい話をもう少し詳しく聞いてみたくなった。この生活体験コースのことは、値段が高いこともあってTVタレントのゴシップなみに人の噂に上っている。
『あなた自身の、あなた自身による、あなた自身のためのもう一つの人生を体験できる、現代の奇蹟』と言う謳い文句で鳴り物入りに始まったコースだった。
 ある人はそれを売春のカモフラージュだと騒いでいたし、また別の人は生体実験の材料にされているとも証言した。そして現にこのコースを体験したたぶんそう多くないであろう人達の中から、三人もの自殺者さえ出ているのだ。
 何度か各方面の倫理委員会から、これを廃止するようにとの要請があったはずだ。それも値段が高いのでどうせ商売にならないだろうと高をくくっているうちに、今ではその謎の部分と共に、隠れた人気商品になっているのだとも聞いている。
「よろしければ、その生活体験コースのことを、少し詳しく教えていただけないでしょうか」
「かまいませんよ。まだ先生もいらっしゃらないことですし」
 彼女は快く了解して話してくれた。

「最初はオレンジ館の五階にある『生活体験コース』のカウンターで、どういうものか興味があったのでパンフレットでももらおうとしたんです。するとカウンターの女性が、特にパンフレットはありませんので係りの者が説明いたします、って言うんです。すぐ隣にドアがあって、どうしようかと迷ったのですが、せっかくだから説明だけでも聞いてみようと思って中へ入ってみたんです。
 私の仕事はいろんな取材記事を書くことでしたので、うまくいけばおもしろい記事にするような取材が出来るかも知れない、と思ったことも事実ですわ。なにしろ二人目の自殺者が出て、一人目の時はコースとの関係なんて考えなかった人も、これはやはり生活体験コースの中にその原因があるらしいというので、ちょうど大騒ぎされていたときのことですから。
 説明用の部屋の中はいくつかの個室に区切ってあって、それぞれのコーナーにはコンピューターの端末と小さなスクリーンがありました。やがて係りの人が現れると、あなたの夢はどのようなものでしょうかと尋ねられたのです。私はそんなことを考えずに入ってしまったものだから、いいえ、一応どんなものか興味があったものですから、と少し逃げ口上で答えてみました。でも係りの人はおかまいなしに、けっこうですよ、ここはあなたの夢を実現してさしあげる所ですので、まずは何なりとあなたの夢をおっしゃっていただければ、どうやってそれを実現するのかお話しいたしましょう、というわけです。
 私は少し考えて、とても無理と思われるようなことを言ってみました。
 自分はずっと仕事に生きてきて、これからも家庭を持つことはなさそうだから、思いっきり恋をして、その人と家庭を持って、子供を育てる落ち着いた生活の体験がしてみたい。これだけ欲張りなことを言えば、そう簡単に実現できるわけがありませんからね。しかも一週間で全部をすますなんて、誰が考えたって出来る筈のないことだと信じていたのです。
 ところが係りの人は、分かりました、と言ってキーボードを打ち続け、やがて画面にたくさんの質問事項が出てきたのです。それは恋愛用と家庭用のものに別れていました。それからおもむろに、あなたは相手の男性に対してどんな希望がありますか、外見的なことも内面的なことも思いつくままにおっしゃって下さい、と言われました。私は適当に思いつくまま、背が高くて、やさしくて、といったとりとめのないことを並べたのですが、係りの人はそれを聞きながら一つ一つキーボードを打つばかりです。ただ一度、こんな注意はされました。私が力の強い人がいいと言ったからといって、生活体験の中で恋人になる人が力の強い人になるとは限らないから、それは心配しなくていいのだというようなことを。
 恋愛に対するさまざまな質問が終わると、家庭生活についても同じような質問に答えて、いくつかのテストも受けました。それが終わってようやく、私がこのコースに参加する場合の手順について説明してくれたのです。つまり今の下調査を基に、それを体験するためのおよその費用がコンピューターによって計算されるので、私はその費用との関係によって、望みをもう少しけずるなり、もっと別のものにするなりの調整をすることになるのです。
 これでおよその話がまとまると、今度は体力的にも精神的にも私がそのコースに耐えられるかどうかのテストが行われ、OKが出ればいよいよ契約ということになるのです。私の場合、最終的な契約金額は百五十八万円でした。
 最初は契約するつもりなどなかったのですが、こんな夢のような体験が本当に出来るのなら、決して高い金額ではないように思われてきて、これがもし怪しいインチキ商売に過ぎないのなら、それを材料に記事を書くなり慰謝料を請求するなりで元は取れるだろう、と考えるようになったのです。契約書にサインして、私の体験は三週間後と決められました。
 当日までにさらに二回の健康検査とコンピューター診断を受けて、いよいよその日、指定された部屋のベッドに横になると、即効性の睡眠薬をかがされて眠りにつきました。眠ったあとどのように扱われるのかは、営業上の秘密として一切教えてもらうことは出来ません。そのあと私が現実に戻るのは一週間後のことになるので、その間自分がどのように扱われるのか不安でないはずはないのですが、百貨店が責任を持って人権と健康を保証する、ということで納得する以外なかったのです。
 そして信じられないようなことですが、それからきっかり一週間後、同じベッドの上で目を覚ますまでに、本当に今でも不思議なのですが、私は確かに三十年近い年月を生きたのです」