「沈まぬ太陽」

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社会派長編小説の巨匠と称される、山崎豊子の「沈まぬ太陽」が、
およそ3時間半の映画として制作され、公開されることになったので、
その試写会に応募して、昨日ファボーレまで見に行ってきました。
主人公である〈恩地元〉役の渡辺謙を始めとして、出演者も豪華で、
並べて紹介するだけで長くなるでしょうが、僕はそれは書きません。
長い物語ではあっても、それぞれの出演者が映画で登場する時間は短く、
恩地以外の登場人物は、表象類型的にしか描かれていないからです。

原作はさらに長いですし、僕は読んでいませんのでわかりませんが、
映画としての「沈まぬ太陽」は、個性としての人間像を描いている以上に、
1960年代から80年代に至った、「会社人間」を浮き彫りにしています。
この高度成長期に、労働運動を通して会社を良くしようとした恩地は、
経営陣から目障りとされ、僻地の海外勤務に左遷として飛ばされる。
さらにその後も、会社側からの約束は次々に保護にされ、冷遇されて、
家族と一緒に暮らすことも出来ず、それでも会社を辞めようとはしない。

それほどまでに執着する会社とは何なのか?僕には理解しがたいけど、
これを一つの会社とは考えずに、就職先と考えれば現代にも通じるのか?
一個の人間としての無力さを知る故に、組織としての会社に執着した、
同じ事が現代では、収入源としての就職先に執着するようになっている。
もしかしたら、そこに大きな違いは無いのかも知れないと思わされました。
それでも現代であれば、もっと家族との時間を大切にしたであろうし、
その辺の感覚は、恩地の家族との関係で描かれてはいるのですが、
恩地以外の登場人物に、まったく家族が出てこないのは奇妙でした。

どうやらこの映画は、様々なディテールや背景をすべて切り捨てて、
航空史上最大の犠牲者を出した、御巣鷹山でのジャンボ機墜落事故を通し、
あるいはその前後の出来事を通して、会社とは何かを描いたのでしょう。
半官半民のような巨大航空会社は、現代でさえ迷走を続けていますが、
当時は闇の利権に群がった人たちによって、食い物にされていたと聞きます。
政治が関わる故に、大鉈も振るわれながら、それがまた中途半端に終わる。
三顧の礼を尽くして招いた会長が、政治事情でまた代えられてしまうところは、
今でも、郵政改革で招かれた社長人事で繰り返しているところに重なり、
当時も今も、政治に絡む利権争いに終わりがないことを感じさせます。

恩地の絶望的な感覚は、しかしまたエリートの贅沢な悩みでもあり、
この巨大企業に執着する姿は、不正に荷担して自殺した労働組合員や、
権力闘争の中で自らを見失って、裏工作に長けていった友人たちの姿も、
決してこの巨大組織を去ることのない、特権者の感覚でしかない。
世の中にはむしろ、そうした巨大権力を遠ざけて生きる人の方が多く、
こうした人たちにとってこの物語は、やはり特殊な世界に見えてしまう。
この特殊な世界の内部で何が起きようと関係なく、巨大組織は守られて、
内部人への待遇こそが現在の経営さえ危うくし、銀行も融資に難色を示す。

さて、あらためて僕らは、この事件や映画から何を学べばいいのか?
考えてみると、会社人間としての人生の大半を淡々と描いた作品によって、
結局人は、自分が所属している世界でしか物事を見ていないことがわかります。
人間的な正義や良心に従って生きた恩地が、最後にまたアフリカへ左遷される。
それを理不尽とする以上に、彼は内心ホッとするものを感じている。
人間的な残酷さや不正の中で生きることに、疲れているように見えますが、
それならなぜ、そのような会社に執着するのかが、やっぱり疑問なのです。
彼もまた余人と同じ、社会性よりも権力内部であることを選んでいるのです。

民主主義の社会とは、権力に外部を作らないことかも知れません。
僕らはいつも、所属する内部で正義を唱えながら、外部を差別して平気でいる。
この映画を見終わって、そんなことを考えてしまいました。