会いに行けない人

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いつもは、同じ映画を二度見ないのですが、
今回は、ずっと気掛かりなこともあったので、
テレビでの上映を、最初から最後まで見ました。
おくりびと」は、やっぱりいい映画ですね!
内容はわかっているのに、何度も泣いてしまった。
それぞれの人生が、亡くなったときに集約される、
命を終えたときに、その命が何だったかわかる、
いかにも日本人の死生観が漂っています。

だけど僕が気掛かりだったのは、別のことで、
主人公が最後に父親の死を知らされたとき、
余貴美子が、自分も子どもを棄ててきたと言う。
そして「会いたいけど、会いに行けない」のだから、
最後くらいは見に行ってあげて!と懇願するところです。
主人公の父親にしても、余貴美子演じる母親にしても、
人は何故、一番大事な人に会いに行けないのか?
これは単に親子の関係だけではないと思うのです。

僕は自由に生きてきたはずの、自分の生涯において、
大切な人ほど、会いたくても会いに行けなかった気がする。
ほんのわずかでも、相手に対する後ろめたさを感じると、
相手のことを思えば思うほど、申し訳ない気持ちになって、
会いに行けば済むようなことが、行けなくなってしまう。
するとその、行けないことがまた負い目に感じられて、
ついには連絡も出来ずに、ただ想いだけを抱いて生きる。
冷静に考えれば愚かしくても、どうにもならない感情です。

主人公の父親は、あるいは余貴美子が演じた母親は、
男と女として自分の伴侶に会いに行けなくなったのですが、
同時に自分の子に対しても、同じ後ろめたさで会えなくなる。
それどころか、一度の連絡さえ出来なくなってしまう。
そして月日が過ぎて、想いだけが化石のようになるのです。
孤独のうちに亡くなった父親が、石文を抱いていたのは、
決して偶然ではなく、そのようにしか生きられない、
人間のどうしようもない性のようなものを感じさせます。

生涯を賭けて一番会いたい人に、死ぬまで会いに行けない、
もっと素直に、会いに行けばどうだったのだろうか?
たぶん、人はそれほど強くなれないのだと思うのです。
一番愛する人だからこそ、現実を目前に見られない。
人として出来るのは、そんな人間を受け入れるだけです。
あるがままを認め、受け入れることが出来たとき、
人生は一歩、違う場所に踏み出せるのかも知れない。
気掛かりは、そんな思いに溶けて、消えていきました。



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