「君自身に還れ (知と信を巡る対話)」

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二年前に池田晶子さんがお亡くなりになって、
彼女の言葉に深く共鳴していた僕は、翌年となる昨年、
「新しい生き方を探る読書会(池田晶子を読む)」
と題した講座を開いて、池田晶子のまとめをしました。
そのとき取り上げた本は、「人生のほんとう」で、
そこには彼女が、生涯を掛けて考えたことが網羅されて、
人生における知ることの喜びが、描かれていたのです。

お亡くなりになったあとに、さらに新しい本が出て、
そのことが出版界でニュースになって騒がれると、
天の邪鬼な僕は、みんなが読むなら読まなくていいと思った。
ところが先日、当時池田晶子さんを巡って話をした人から、
この本は面白い!と言って紹介され、借りて読んだのが、
「君自身に還れ~知と信を巡る対話~」だったのです。
それは、浄土真宗の真髄を説く大峰顕さんとの対談でした。

大峰さんは、今年で80歳になる浄土真宗の大家で、
池田さんはまだ40代半ばで、宗教とは無関係の理論家です。
それでも池田さんには、少しだけ仏教的な世界観があり、
大峰さんに至っては、幅広く東西の哲学を知る人ですので、
どのような対談になるのか、興味深いところではありました。
しかも池田さんは、この本のあとがきを書いたその月に、
急逝されていることを思えば、感慨深い本でもあるのです。

読んでみると、本の内容は予想通りに楽しいものでした。
哲学を突き詰めても、信仰を突き詰めても、同じ地平があり、
この二人の話は、その地平を縦横無尽に飛び回りながら、
足を踏み外して落ちることもなく、自由に世界を渡るのです。
こうした対話を出来る人は滅多にいない!と池田さん自身が言い、
大峰さんは、「引鶴の空蒼ければ湧く涙」と彼女を惜しまれました。
池田さんをさらに大きな視点から見る、大峰さんの心が染みます。

対談の中で池田さんは、一つのおおきな疑問を投げかけます。
真理を悟ったからと言って、それを語る必要はあるのか?と。
すると大峰さんは、語らないのは「独覚」で良くないと答える。
語り得ない真理そのものを表現する行為の、必要性を説くのです。
ロゴスだけではダメで、ミュトスの世界まで出掛けていく力量。
キリスト教も含めた神話が、なぜ物語なのかの意味でもあるところ。
僕らはどこまで行っても、物語性の中でしか生きられないのです。

絶対的真理など無いのをわかった上で、真理を求める人間は、
さらにやっかいなことに、それを言語によってしか表現できない。
この困難の中で、人は真理を求めるが故に個々の物語を紡ぎ、
それぞれの物語に共感することで、真理に近づいていくのです。
共感のペーソスを強調すれば詩になり、神話になるのでしょう。
世間の垢にまみれた同じ言葉が、原初の根元的な地平で蘇り、
活き活きと飛び交う対話は、言霊が飛び交う様を見るようでした!



池田晶子・大峰顕 対談「君自身に還れ~知と信を巡る対話~」
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