「すべての些細な事柄」

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ゴダールが賞賛して、パリでロングランした映画。
ニコラ・フィリベール監督の「すべての些細な事柄」は、
精神に障害を持つ人々による、戯曲上演までの様子を、
緑に囲まれた解放病棟ラ・ボルドを舞台に紹介する作品です。
あまり一般の映画好きには、お勧めしませんが、
人間とは何か? ここは何処か? 社会とは何か?
といった謎に関心を持つ人には、興味深い一本でしょう。

今まで僕は何度となく、物語の大切さを書いていますが、
それではノンフィクションは、重要ではないのかといえば、
フィクションもノンフィクションも、実は物語だと考えるのです。
人間の脳は、いつも文脈的にしかものごとを理解できないのだから、
ノンフィクションにも文脈があって、物語として理解する。
この文脈に潜む糸を見ることが、物語を読むことの本質なのです。
5歳の子どもも、アボリジニも、ビジネスマンも、老人も、
この意味ではまったく同じで、障害者も例外ではありません。

それでは精神障害者と健常者は何が違うのでしょうか?
僕は専門家ではないので、医学病理的な解説は出来ませんが、
一番大きな特徴は、他者の物語を理解できるかどうか?
自分とは違う世界観を認めて、受け容れられるかどうか?
このあたりに、境界線があるように思っているのです。
よって現状の社会価値観に合わせられない人ばかりでなく、
うまく現状の社会を、自分の世界観と同じにしていたとしても、
他の価値観を受け容れられないのは、やはり精神障害です。

このように考えれば、精神障害者とは個々の世界観の中で、
他者との適切な繋がりを、うまく見出せなくなっていく人々と言えますし、
健常者が彼らを怖れるのは、独裁政治を怖れるのと同じ理由です。
この映画に出てくる障害者と、彼らの世話をする健常者との違いは、
健常者は社会的価値観を共有しているけど、障害者にはそれがない。
これが、彼らを一般社会から締め出す理由でもあるのですが、
先にも書いた通り、実社会にも顕在化されていない障害者は多いので、
どのような人が障害者であるかを知っておくことは意味があります。

この映画では、障害者の多くは疲れた目をしていますが、
一緒に演劇をするために活動している場面では活き活きとして、
誰が健常者で誰が障害者かわからないほど、同じ世界の住人です。
こんな元気に暮らし続けられたら、みんな健常者ってことでしょう。
弱者を助け合う社会福祉が、人間社会にとって不可欠なのは、
仲間はずれの障害者を、少しでも減らそうとする試みなのです。
僕はこの映画を観ていて、そんなことを考えさせられました。