川口由一さんと自然農実践者の集い
ひとまとめに自然農と言っても、様々な考え方があって、
それぞれ考えに合わせたグループもあるのでしょうが、
僕が今回参加したのは、川口由一さんが中心になっている、
「妙なる畑の会」全国大会で、二日目は実践者の集いでした。
会場も、昨日の大ホールから、小ホールに場所を移して、
参加者は全員、すでに自分で自然農を実践している人たちです。
プログラムは、午前の部と午後の部に分けられていて、
午前の部には、7人の実践者と川口さんが壇上に並び、
午後は、別の実践者と川口さんが壇上に並んで進行します。
昨日のような、ゲストを招いての話ではありませんから、
それぞれの実践者が、自分の体験に基づいたお話が中心になる。
そこで川口さんは一捻り、昨日夜の芸術と宗教を絡めて、
人生の味わいと自然農の関わりをテーマにされたいようでした。
すると会場から、「草や虫を敵にしない」考え方に関して、
昨夜の真善美を見抜く視野の大切さに絡めて、質問がありました。
自然界に美醜はなく、すべてを受け入れて活かされて生きるなら、
世界にある戦争や環境破壊などの行為も、排除しないのか?
個人における社会との関わりに、主体性はないのか?と言った、
簡単に言えば、そう言った主旨の質問だったと思うのですが、
川口さんは、自然界に美醜は無くても、人間には贋悪醜があるので、
まずそこに陥らないことの大切さを話されました。
昨夜の「宗教・芸術・人生の本質と意義を悟る」の話の中で、
折口さんは、「西欧文化では真善美はそれぞれ別のものだけど、
日本文化では一体のものであり、醜悪な真実など無い」
と話されたのですが、これにも通じる話でしょう。
「美しい悪」など、和国としての日本文化では矛盾しており、
善でないものは美しくないばかりか、真実でさえない。
そうした視点で考えれば、戦争は求める意味もないものです。
しかしながら、世の中の人全員が自然農の実践者のように、
対立しないことを善しとして生きる人ばかりならいいのですが、
実際には、我欲のために他者の痛みには無神経な人が多く、
自らの正義のためには、戦争も辞さないとする考え方もある。
恐ろしいほど価値観が違うと思われる、こうした人たちと、
どのように接し、どう関わっていけばいいのか?と考え、
これを僕自身からの、関連質問として聞いてみました。
この質問に対する川口さんの答えは、やはり人間として、
自分の立ち位置を揺るがないものとしながらも、押し付けない。
感情的にならずに、常に冷静に、自分に還る大切さでした。
僕が「人間としてどう生きるか?」と問い続けたところで出会った、
「生き方としての自然農」は、様々な実社会の問題に対しても、
誰かを言い負かしたり、説得で自分の価値観を押し付けるのでなく、
常に「自分が人間としてどう生きるか」を問い続けるしかない。
このあたりまえのことを、もう一度確認することになったのです。
揺るぎなくそこにあることの大切さを、川口さんは知っている。
知った上で実践し、その根っこが自然農だと言うことでしょうか。
そうした川口さんの立ち位置と、在り様は、たしかに美しく、
人間であることの喜びを、自らの生き方として味わっておられる。
僕は自分が関わる市民活動や、数少ない人々との関わりの中でさえ、
ちょっとしたことで揺らぎ、自信もなく、迷うことが多いのですが、
生き方としての自然農に巡り会えたことは、最大の富でしょう。
その後も実践者のリーダーや、会場参加者のやりとりは続き、
予定時間いっぱいまで、真摯な話し合いが盛り上がっていました。
「人生とは何か」「どう生きるか」などと考えることは、
人間として最も基本に押さえていなければならないことなのに、
多くの人は、損得収益のことしか考えない拝金教に陥っている。
その拝金カルトを抜け出さないと、人間としての喜びは味わえない。
あらゆる思い込みや常識を脱ぎ捨て、振り払った立ち位置で、
「人生とは何か」「どう生きるか」と考えた時に、
川口さんの自然農は、大きな安心となって見えてくる。
僕はそれを、不安を暮らす人たちに伝えたいと思うのです。
写真は今回のものではなく、赤目で実践指導中の川口さんです。
川口由一さんの考え方が最も良くわかる本「妙なる畑に立ちて」は(↓)こちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4787790803?ie=UTF8&tag=isobehon-22
それぞれ考えに合わせたグループもあるのでしょうが、
僕が今回参加したのは、川口由一さんが中心になっている、
「妙なる畑の会」全国大会で、二日目は実践者の集いでした。
会場も、昨日の大ホールから、小ホールに場所を移して、
参加者は全員、すでに自分で自然農を実践している人たちです。
プログラムは、午前の部と午後の部に分けられていて、
午前の部には、7人の実践者と川口さんが壇上に並び、
午後は、別の実践者と川口さんが壇上に並んで進行します。
昨日のような、ゲストを招いての話ではありませんから、
それぞれの実践者が、自分の体験に基づいたお話が中心になる。
そこで川口さんは一捻り、昨日夜の芸術と宗教を絡めて、
人生の味わいと自然農の関わりをテーマにされたいようでした。
すると会場から、「草や虫を敵にしない」考え方に関して、
昨夜の真善美を見抜く視野の大切さに絡めて、質問がありました。
自然界に美醜はなく、すべてを受け入れて活かされて生きるなら、
世界にある戦争や環境破壊などの行為も、排除しないのか?
個人における社会との関わりに、主体性はないのか?と言った、
簡単に言えば、そう言った主旨の質問だったと思うのですが、
川口さんは、自然界に美醜は無くても、人間には贋悪醜があるので、
まずそこに陥らないことの大切さを話されました。
昨夜の「宗教・芸術・人生の本質と意義を悟る」の話の中で、
折口さんは、「西欧文化では真善美はそれぞれ別のものだけど、
日本文化では一体のものであり、醜悪な真実など無い」
と話されたのですが、これにも通じる話でしょう。
「美しい悪」など、和国としての日本文化では矛盾しており、
善でないものは美しくないばかりか、真実でさえない。
そうした視点で考えれば、戦争は求める意味もないものです。
しかしながら、世の中の人全員が自然農の実践者のように、
対立しないことを善しとして生きる人ばかりならいいのですが、
実際には、我欲のために他者の痛みには無神経な人が多く、
自らの正義のためには、戦争も辞さないとする考え方もある。
恐ろしいほど価値観が違うと思われる、こうした人たちと、
どのように接し、どう関わっていけばいいのか?と考え、
これを僕自身からの、関連質問として聞いてみました。
この質問に対する川口さんの答えは、やはり人間として、
自分の立ち位置を揺るがないものとしながらも、押し付けない。
感情的にならずに、常に冷静に、自分に還る大切さでした。
僕が「人間としてどう生きるか?」と問い続けたところで出会った、
「生き方としての自然農」は、様々な実社会の問題に対しても、
誰かを言い負かしたり、説得で自分の価値観を押し付けるのでなく、
常に「自分が人間としてどう生きるか」を問い続けるしかない。
このあたりまえのことを、もう一度確認することになったのです。
揺るぎなくそこにあることの大切さを、川口さんは知っている。
知った上で実践し、その根っこが自然農だと言うことでしょうか。
そうした川口さんの立ち位置と、在り様は、たしかに美しく、
人間であることの喜びを、自らの生き方として味わっておられる。
僕は自分が関わる市民活動や、数少ない人々との関わりの中でさえ、
ちょっとしたことで揺らぎ、自信もなく、迷うことが多いのですが、
生き方としての自然農に巡り会えたことは、最大の富でしょう。
その後も実践者のリーダーや、会場参加者のやりとりは続き、
予定時間いっぱいまで、真摯な話し合いが盛り上がっていました。
「人生とは何か」「どう生きるか」などと考えることは、
人間として最も基本に押さえていなければならないことなのに、
多くの人は、損得収益のことしか考えない拝金教に陥っている。
その拝金カルトを抜け出さないと、人間としての喜びは味わえない。
あらゆる思い込みや常識を脱ぎ捨て、振り払った立ち位置で、
「人生とは何か」「どう生きるか」と考えた時に、
川口さんの自然農は、大きな安心となって見えてくる。
僕はそれを、不安を暮らす人たちに伝えたいと思うのです。
写真は今回のものではなく、赤目で実践指導中の川口さんです。
川口由一さんの考え方が最も良くわかる本「妙なる畑に立ちて」は(↓)こちら。
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