哲学の向こう側

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今年5月から、毎月一度行っている自遊塾講座に、
「新しい生き方を探る読書会(池田晶子を読む)」
というのがあって、「人生のほんとう」を読んでいます。
今日はその第6回目として『 魂 』の章をやりました。
この章には、池田さんが辿り着かれた処が描かれている!
そう思ったので、その何かを書き留めておきましょう。

池田さんは学生の頃から、見えないものに関心を持って、
身の回りに見えている価値観の向こう側に、到達すべき、
なにものにも惑わされない真実を求めた人でした。
それは卒論で取り上げたメルロ・ポンティからも窺えます。
そして卒業後は、まっすぐその探求を押し進めていって、
数多くの興味深い本を残され、若くして亡くなられた。

人間心理学などは曖昧すぎて、自分には合わない、
もっと「これがこうだ」と言い切るのが好きであって、
人間の内面も、哲学的な理性的言語で明快に語ればいい!
そう思っていたことが、本の中に書かれています。
ところが池田さんの面白いところは、そこで留まらず、
哲学的な思考を好む自分の嗜好は、これは何だ?と考えた。
そこで「誰でもない私」の存在に向き合うわけです。

我思う故に我あり・・・の普遍的な自己ではなく、
誰にも置き換えられない池田晶子という個別性の意味。
これを考えるために、『 魂 』という言葉を持ってくる。
しかもこの魂は、単なるエゴの自我とは違っていて、
個人の意識やユングの言う集団自意識さえ超えて、
自分の周囲にある森羅万象、宇宙すべてを包括します。
つまり自分に関わる命の営み全体を、魂だというのです。

池田さんはこれを唯魂論として、アニミズムと読む。
別の言い方で、森羅万象が命だから生命物活論とも呼ぶ。
ここに至って近代的自我を超えていってしまいます。
魂というものを、不変であるとかないとかの何かではなく、
あらゆる生命活動の「関係性でしかない」と考えるのです。
古くから日本人の心にあった、八百万の神様です。

運命とはその人の性格がもたらすものだと言ってみたり、
池田さん自身が尊敬していた小林秀雄の言葉を借りて、
「彼は科学者にもなれただろうし、軍人にもなれただろう、
しかし彼は、彼にしかなることはできなかった」と。
ここにあらゆる人の個性的な価値があって、優劣はない。
優劣はいつも、誰かの都合で付けられるだけなのです。

ここであらためて、池田さんは一つの疑問を持ちます。
この魂を、人間あるいは人格的なものと言えるのかどうか?
人間を超えた宇宙の働きや生命世界全体を背景に持つなら、
どう表現しようと、人は必ず物語として意味付与をする。
そうしないと表現出来ないのだから、意味付与は起きる。
そこで真実から離れていってしまう!と言いたいようです。

実はこの観点においては、僕は池田さんと考えが違う。
求めるものが違うと言っていいかもしれませんが、
人間は物語性によってしか何事たりとも表現出来ない!
と認識して、より魅力的な味わいを持つ物語を求めるのです。
池田さんはさらにその先に真実を求めるのかもしれませんが、
僕は表現可能な世界での、味わい深さを求めるのです。


池田晶子さんの「人生のほんとう」は、すべての皆さんにお勧めします。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4901510401?ie=UTF8&tag=isobehon-22