日本的エスニシティ!

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社会学関係の本を読むと、エスニシティって言葉に出会いますが、
今まであまり深く、その意味を考えたことはありませんでした。
それが去年、スティグレールの「愛するということ」を読んでから、
自分にとっての(私たち)とは何を指すのかと考えていたところに、
新評論から届いた「NGOと社会」の『誰の声に耳を澄ますのか』を読み、
突然、エスニシティって言葉の持つ、重大な意味に気が付きました。

僕らは市民活動において、しばしば「共生」を取り上げるのですが、
「NGOと社会」代表の藤岡美恵子さんは、官製「多文化共生」に対して、
言葉面で「共生」と言いながら、実際の制度では、在日朝鮮人や女性を差別し、
悪気もなく差別し続ける社会を維持していることに、疑問をぶつけています。
しかも単に現状を憂えるだけでなく、さらなる問題点として、
「文化の多様性を承認し奨励しさえすれば、多数派日本人と民族的マイノリティ、
 あるいは外国人との間に愕然と存在する経済的・社会的格差や差別をなくすこと
 が出来るのか」と本質的な問いかけをしているのです。

さてここに至って、差別しているのは誰で、差別されているのは誰なのか?
実はここに、思いも寄らなかった、最新物理学の余剰理論と共に説明される、
パッセージ(別次元)の考え方が、事態を説明してくれるように思われたのです。
自分が何ものか?は、決して自分が知っている世界だけでは決まっていなくて、
幾重にも重なり合った見えない世界(不可能なわけではなく見ようとしていない)
の総合物として成り立っているために、無意識に人を傷付けたりもする。

すなわち、人間の世界には(悪人)と(善人)がいるわけではなく、
「悪を憎んで人を憎まず」の教え通り、(悪行)と(善行)があるだけですが、
さらにいかなる(善行)も視点を変えれば(悪)の要素を含んでいると見る。
「共生」もマイノリティの視点を失うと、かつての同化政策に陥る可能性がある。
このとき新しい「正統」への帰属意識を言葉で表現すれば、エスニシティなのです。
国家としての民族性の後に、生活基盤を共にするコミュニティが台頭する中で、
あらゆる階層、価値観を縦横に貫いて、主観的に帰属意識を持っている「何か」
これが、従来の民族意識を超えて、マジョリティを生み始めているのです。

マジョリティは、マイノリティの視点を失うと暴走して差別を生みますが、
たとえば男女の数が数字の上で同じでも、女性差別が蔓延することがあるように、
あるいはイラクで少数派のスンニ派が、多数派のシーア派を支配していたように、
差別を生みだすマジョリティは、見かけ上の数ではなく心の世界によるのです。
誰も差別せずに、誰も苦しめない、真に人権を大切にして生きようとすれば、
いつもマイノリティに対する視点が大切になるのは、こうした理由によるのです。

僕らは残念ながら、まだこのエスニシティを十分に理解していません。
だけど行政や企業は、たぶんその意味をかならずしもわかっていないままに、
人々の心を都合よく操るノウハウとしては、既に使い始めているのです。
このところ政府の政策や法律が、司法の場で違憲と判断される事例が増えました。
司法も頑張ってはくれていますが、それ以前に、どうして違憲政治がはびこるのか?
政策担当者は、都合の悪い人間や集団や国をマイノリティとして排他することで、
都合のいい人間にマジョリティ意識を植え付けて、自分たちをガードしている。

あらためて僕らは「誰の声に耳を澄ますのか」を考える必要があります。
(私たち)が単なる為政者や利権者に都合のいいマジョリティに陥らないために、
ものごとを正しく見る目を養い続ける必要がありますが、その時に大切なのは、
大多数の人が言っていることよりも、少数者の意見に耳を傾けることだと思います。
そこにはパッセージの断片がある可能性が高く、今まで見ていなかった世界が、
その断片を通して、大きく開けてくる可能性が高いからです。



藤岡美恵子・越田清和・中野憲志編「国家・社会変革・NGO」は、(↓)こちらから。
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