「フランドル」

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フランス北部のフランドル地方と思われる田園地帯で、
一組の幼なじみの男女が登場して、森の中でセックスをする。
男には召集令状が来ており、週明けには村の仲間と共に出征する。
親友は、お互いに恋人と言える相手を持って、愛し合っているのに、
この二人は、お互いを恋人とか唯一の相手とは考えていない風で、
女は二人の男を同時に愛しているような、素振りさえ見せる。

すっきりしないモヤモヤの中から戦場に出向いた男は、
仲間を殺され、女性をレイプし、子どもを殺し、報復を受け、
およそ戦争の大儀とは関係なく、憎しみの中で殺し合う人間となる。
その描き方はあくまで淡々と、ドキュメンタリーのように写し出し、
悲劇とか哀れみとか言った感情を超えて、見る者を釘付けにする。
突然の爆破や突然の襲撃を受け、それさえも日常的になって、
人間的な判断はどこかへ置き去りになっていく男がいる。

市民の生活を守る軍事行為が、戦場では復讐の応酬となって、
仲間を殺された憎しみをはらすため、残忍な行為が行われていく。
その残忍な行為さえ、どこかで理解するしかない苦悩に満ちている。
その現場で、なぜそのような行為がなされるのかを問う者はいない。
そして戦場に呼応するかのように、村での生活にも苦悩が伴う。
失われたものが何か、必要なものは何かが無言に問われていく。

やがて男は一人だけ生き延びて、村に帰ってくると、
以前と同じ女と寄り添い、どうしていいかわからず抱く。
苦悩に押し潰されそうな男は、女を抱きしめながら、
初めて「愛している」と声を絞って訴える。

圧倒的なフランスの田園と砂漠の戦場を対比して見せながら、
感情的な抑揚を押さえて、効果音も音楽もなく画面が進行していく。
説明になるような台詞もないのに、何が起きているかが伝わってきて、
極力少ない言葉のやり取りは、すべて真剣な叫びに聞こえてくる。
現実の音と会話はこんなものだろう、と推測される少なさで、
信じたくないような、人に話せない現実の中にいた自分。

見終わって、実はこの映画が何を訴えたかったのかわからない。
そうした解説を拒むような、圧倒的な現実を見せつける手法を使い、
見る者をその現場に立ち会わせてしまう、臨場感だけを持っている。
その先は自分で考えろ!と突っぱねているのだろうか?と思わされる。
戦場のシーンはリアルで、効果音も何もなく人が殺される世界で、
僕らはこの映画を通して、いったい何を感じ取ればいいのか?
悲惨だった戦争になど関係ないかのように存在する孤独!

男がいなくなってから、精神を病んでしまった女にとっても、
女から離れて体験した戦場で何が起きていたかを見てしまった男にも、
命を賭けるまでに大切なものは、愛することでしかないと気付かされる。
今まで「愛している」と言えなかった男が、言えるようになった?
その愛の不在に対する恐れが、この映画のテーマだったのか?
そのわからなさまで受け入れるしかない、愛がテーマか?

2006年のカンヌ映画祭で、審査員大賞を受賞した映画でした。


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