「人間とは何か」

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去年の春に亡くなった、ドイツの物理学者にして哲人、
カール・フォン・ヴァイツゼッカーの著書を翻訳したもので、
「人間とは何か(過去・現在・未来の省察)」を読みました。
この本を読み始めてから、一ヶ月以上掛かったのは、
内容を読めば読むほど、難しかったこともありますが、
それ以上に、じっくり読みたいとの思いが強かったのです。

読み終わっての感想は、まだ何とも言えない気持ちです。
内容は「ヨーロッパ諸学の危機」を書いたフッサールと同じで、
キリスト教に深く根ざした価値観の限界を示しながら、
それを超えて学問することの大切さを訴えていると言えます。
手法としてヴァイツゼッカーは、個人の体験を重視しながら、
回廊的回り道を辿って、キリスト教の発祥にまで遡って考える。
その教義が定着すると平行して失われてきたものに目を向け、
現代人が信じている物理科学まで、疑ってみせるのです。

イスラム教やユダヤ教は、なぜ偶像崇拝を戒めているのか?
そこに登場した具体的存在のイエスによって、教会は栄え、
その中から様々な科学が登場して、科学文明が盛んになった。
この科学文明こそが、戒められるべき「偶像」ではないのか?
なぜなら、確たる不動のものと思われた物理科学さえ、
量子論から見れば、物を生産する便宜上の物差しでしかない。
ひとたび確定された姿は、常に真実を欺くという意味からも、
西欧諸科学文明は、打ち立てられた偶像の可能性が高いのです。

同じように西欧価値を疑って再検証した思想家としては、
イリイチなども挙げられると思いますし、その意味からは、
この本の内容は、詳細に分析しながら感想を書いてみたい。
だけどイリイチの場合は、20年前から知っていたので、
彼の思想の集約とも言える「生きる意味」を読み進めながら、
同時に内容を検証して、僕なりの感想を書くことも出来ました。
それがこのブログの一つのコーナーにもなっています。

だけどヴァイツゼッカーに関しては、今まで何も知らなくて、
この本こそが、彼の著作を読んだ最初でもあったので、
僕の中で熟すには、この先相当時間がかかる気がします。
それでも素直に感じたことだけを書いておくとすれば、
現代人が考え得る限りの知識と教養を、誠実に駆使することで
「私たち」とは何者かを問いつめて、人間の正体に迫る本でした。
キリスト教を土台とする欧米思想とギリシャ哲学の関係から、
「真」であろうとする科学と、「善」であろうとする政治とは、
実は同じ「あるべき姿」を追求しているのだと指摘する。

崇高な理想を掲げるユダヤ教の歴史は、なぜいつも失敗の連続で、
長い目で見れば、愚かな結末を招くことばかりを行っているのか?
彼らの神は、いつまでたっても彼らを祝福することはなく、
むしろ、やってはいけない戒律ばかりを示すしかない有り様です。
この実話にこそ、何か大きな意味を読みとるべきではないのか?
神の子イエスは、なぜ権力者の王ではなく処刑される罪人なのか?
こうした問いかけが、量子論的現代にこそ必要になってくる。

さあ、こんな風に書いてくると、キリスト教社会の外にいる、
僕らのような仏教徒や、ヒンズー教とは、いったい何者なのか?
そこに彼は、いわゆる「もう一つの視点」を見ているのです。
神との約束によって、一神教となっている欧米文明に対して、
もっと本来的に、原初的に自然に神を見ている宗教では、
ソクラテスに始まった都会志向とは別の、自然志向がある。
一神教の都会志向に対する、多神教の自然志向の認知です。
ここに隣人の意味があり、何を愛すべきかが隠れているのです。

感想は限りなくあるのですが、今日はここまでにしておきます。
それでもこの本から感じたことは、あまりにも多いので、
このさき何かにつけて、引用なりしながら紹介していくつもりです。
小手先の技術や成果ばかりではなく、こうした文明論的な考察が、
どうして日本では育たないのか?、とても残念な気がします。


カール・フォン・ヴァイツゼッカーの「人間とは何か」は(↓)こちらから。
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