自然に近い豊かな暮らし

イメージ 1

最近はようやく、マスコミでも地球温暖化の危機が騒がれて、
環境保護地球温暖化防止が、企業や行政の課題にもなってきました。
今まで多くの人の警告を無視して、散々環境破壊をしておきながら、
何を今更って気もしますが、それでもやった方がいいのは確かです。
地球大自然の循環に対して、100回の鞭打ちをした後でも、
少しはいたわってあげないと、立ち直れなくなりますからね。

地球をいたわる、地球にやさしく、環境を壊さない、と考えれば、
人の生産活動そのものを、やめた方がいいような気にさえなりますが、
それでは困るので、もう一度何が問題なのかを整理する必要があります。
そこで大きなヒントになるのが、「過剰」がもたらす意味の変容です。

人は何世代にも渡る歴史の中で、まず自分たちの生存を計るために、
たくさんの生活道具や、敵から身を守る道具を手に入れてきたのですが、
産業革命で大量の生産が可能になってからは、少し意味が変わってきます。
やがて大量の生産物は、本来必要と言えないものまで経済に組み込まれ、
需要の創出までして消費を拡大することが、いいことだと奨励される。

ところが、あらゆる運動や活動には作用と反作用があるので、
こうした生産活動が、いくつもの分水嶺を超えて反作用が大きくなり、
複合汚染だ、アレルギーだ、染色体異常だ、地球温暖化だと顕在化してくる。
イリイチが指摘したとおり、こうした問題は人間の無力感を深めてしまい、
人々は自分が無意味な存在でしかないかの如く、打ちひしがれる。
ここに来て初めて、豊かさの意味が問い直されてきたわけです。

独立宣言で建国以来、キリスト教を精神的母体としてきた大国アメリカは、
いつのまにかユダヤの金融商法の守り神となって、イスラムと対立し、
文明の衝突!などと、おどろおどろしい表現をされるまでになっています。
アメリカこそが正義なので、アメリカが行くところでは正義がなされる!
なんて、どこぞの首相が、自衛隊の行くところは平和だ!と言うのと同じで、
自分を何様だと思っているのか、この上もなく恥ずかしい。

こうしたあらゆる場面における、生産、物資、政治、管理、経済の過剰は、
今では本来の意味を超えて、破壊と枯渇と不自由と格差貧困を産み出している。
これを人間にとって、また地球の自然環境全体にとって健全なものにするには、
実は日本では古くから大切にされてきた、和、わび、さび、あはれ、質素、倹約、
そして最近では、もったいない!が持てはやされる、この精神性が注目されます。

それでは、こうした精神性の根底を流れる人の思想とは何でしょうか?
僕はそれが、自然と対立しない人間の在り方ではないかと思っているのです。
欧米のように自然を克服して従えようとするのではなく、自然との調和を目指し、
自然をよく観察して、自分たちもその一員として、調和を求めていく文化。
欧米の一神教文化に対する、八百万の神を崇める日本の精神性が注目されるのです。
対立せずに和を求める、日本の歴史はここに大きな特徴があるのです。

何を言うか!日本は何度も海外に軍隊を派遣して、戦争までしてきたじゃないか!
とおっしゃる気持ちはよくわかるのですが、そうした試みは必ず挫けている。
そして気が付いてみれば、耐え難きを耐えながらみんな仲良くしようとするのが、
この国が弥生時代から現代までを貫く、不思議な柔軟性となっているのです。
この柔軟性の根幹が自然であり、僕らは世界に類を見ない自然崇拝文化を持っている。
僕はわずか6年間ながら、自然農を実践する中で、こうしたことに気付いたのです。

国を守れるのは軍隊ではなく、食とエネルギーの自給を実現しておくことで、
豊かさとは金融マネーでGNPが増えることではなく、自由度が増えることです。
貧富の差を拡大するだけの、まやかしの過剰なグローバル金融経済を振り捨てて、
僕らはそろそろ、この国が本来持っている価値観に目覚めてもいい頃でしょう。

実は日本の多くの自然は、ただ昔から自然にあったのではない、
何世代にも渡って、千代に八千代に子孫が幸せに暮らせるようにと、
人々が手を入れ世話をした成果としての自然だと、知っていましたか?

日本文化の家とは、周囲の自然と調和して居する所なのです。


今日の写真は、石垣島のサザナミハゼです。