むこう側がわかる時

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今ここに閉じられた心身に存在する意識は、
僕の心臓でもなく、内蔵でもなく、手足でもなく、
五感そのものでもなく、頭脳でさえもなく、
ここにある。

限りなく脳内のことのようでありながら、
この自己は、いとも簡単に指先さえ自分だと思う。
多くの女性は、お腹の中に宿す子を自分の一部と思う。
自分が産んだ子は、他人なんかではありえない。
しかし明らかに、意識自体は他者である。

限定してみれば、他者でしかないような、
我が子、自分の手足、身につけているものでさえ、
時に人は己のこととして考え、身内と呼んで憚らない。
自己とは、かくも変幻自在な存在だと言えるでしょう。
この自己は、どこまで広がりうるものか?

僕らは、自分が一個の自分であるためには、
かならず所属している文化に従ってものごとを考え、
その文化が自己を象徴するものによって自己を見ている。
人類の歴史上において、自分と自然界とを一体と考え、
あらゆるものに宿る精霊と自己との交流をしたのも、
特別奇怪なことなどではないでしょう。

自己を、閉じられた心身の中だけで見ないで、
環境と交流することの中で存在していると考えれば、
あるいは生活空間にある精霊と繋がっていると思えば、
世界を見る意識は、大きく違ってくるはずです。

世界を、自分のこととして見る人にとっては、
自由に生きることは、そのまま環境を守ることであり、
周囲にいる人を愛し、彼らを自分の身体の一部のように、
大切にいたわりながら、争う理由などあるはずもない。
誰も自分の足とは争わない、心の広さとはそんなことです。

あらゆるものの意味が、時間と量で変容するのは、
もともと言葉で表現するときの無理が顕在化するだけで、
本質自体はいつも同じようにそこにあるとわかれば、
年齢も品格も愛情も富も、すべては変わらずにいつもある。
気付けばいいだけ、自覚すればいいだけのことでしょう。

たったそれだけのことを、なぜ多くの人が出来ないか?
社会の常識や文化の規律が、そこまで届いていないから、
偏った教育が、自由な人の自己を閉じこめているからです。
この常識を疑い、物事の本質を見つめる目は必ずあって、
それが人類の長い歴史の中で、哲学と呼ばれたりする。
呼び方はどうであれ、それはむこう側を見る自己です。

僕らは、こうして自己を他者化し、他者を自己化して、
特定の文化によって見ているものの、むこう側がわかる時、
これから生まれてくる未来の人たちをも自己として、
今自分が何をすればいいかが、見えてくるのです。

男女の交わりと親子の絆を大切にして、
質素倹約を心得としながら表現を磨く、
素朴な文化が必要とされているのです。


写真は、ハナグロチョウチョウウオとタテジマキンチャクダイです。