ゴボウを掘る

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今のところ、僕の自然農畑には、
大根、白菜、白カブ、人参、ゴボウ、
それから時期を過ぎた小松菜が残っています。
天気予報では、明日の夜から雪マークなので、
今日は取れる野菜を確保しに行きました。

人参はおおかた回収して、大根を少し取って、
さて問題は、ゴボウをどうやってうまく抜くか?
もともと田んぼだった場所だから、土の層は薄く、
少し掘るとすぐに石ころだらけでつっかえます。
ところがゴボウは強い生命力で、下へ深く伸びている。

写真の通り、土は20㎝ほどしか掘れないので、
ゴボウは途中で、ポッキリ折れるしかないのです。
スゴイよねえ!この植物の生命力には感心します。
仕方がないので、掘れるところまで収穫して来ました。

穀物と野菜が、なんとか自給できるようになったら、
多少の余剰生産は、本来なら魚と交換したところ、
今の社会システムでは、そこのところが難しい。
どうしても、途中でお金の世話になるわけですが、
途中でお金が関わると、どんなものでも怪しくなる。

今は昔のように、素朴な物々交換のお金は失われ、
収益をかすめ取って金融マネーとなるお金ばかりです。
歳末に集めに来る様々な募金さえ、不気味な気がする。
そこで僕としては、気持ちはお米や野菜で納めたい。
でも現代では、残念ながらそうはいかないようですね。

昨日も歳末助け合いの袋を、回収に来られまして、
どうしたものか、一瞬絶句してしまいました。
僕に求められたのは高々500円なのですが、
ここでお金を渡すのが、すなおに納得できません。

なんだか偏屈おやじになったようで、イヤなのですが、
たとえ500円と言えども、責任を持って使いたい、
人に任せたくはないと思って、渡さなかったのです。
だけど後になって、そうしたこだわりも執着だから、
もっと無頓着に渡せば良かったかな?とも思うのです。

何々でなければいけない!との思い込みもまた、
困っている人を助けるチャンスを逃すことになる?
しかし間接的であれば、やはり良からぬものが入るので、
自分で責任を持てない大きな慈善に、身を寄せるより、
常日頃から問題を起こさない生き方をしたいと思うのです。