「わたしの声を聞いて」

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12年前の1995年に出版された「心のおむむくままに」の続編として、
スザンナ・タマーロの「わたしの声を聞いて」を読むことが出来ました。
この作品の素晴らしさと、前作との見事な調和について思いを巡らせながら、
また一つ、人間をすばらしいものと思わせてくれた出会いに感謝します。

この作品を読み始めたとき、僕は前作をまったく覚えていませんでした。
それでも、東京から富山への引っ越しに合わせて、多くの本を整理した後に、
前作が残っていたのは、何か手放したくない思いがあったからでしょうか。
今回の作品を読み始めて、最初のうちは、内容よりも表現に心を惹かれました。
幼い頃に自分が育てられた古い屋敷に一人佇み、目に見えるものを描写する。
その描写の奥に、主人公マルタの心と、作者の思いが輪郭を表してくる。

幼い頃に母を亡くしたあと、育ててくれた祖母との蜜月と反目した日々。
祖母は母のことをあまり話してはくれず、父のことは話そうにも何も知らない。
家を出ての長い旅から帰ったマルタは、祖母が少しずつこの世界の人でなくなり、
やがて反目のうちに亡くなってしまってから、言い知れぬ寂しさを感じます。
遺品を整理しながら、見つけた母の手紙から父が生存していることを知り、
やむにやまれぬ気持ちから、母と自分を捨てた男に会いに行きます。

会ってみると父親は、母が手紙で書いていた通りの虚無的な哲学者で、
娘マルタとの初めての出会いにも、喜びを見せることなく当時の話をするのです。
母はこの男に何を求めたのか? この男は何を求めて母と関係を持ったのか?
母は虚無的な男の哲学に憧れた結果、子どもの受胎を喜んではもらえず、
一人ででも育てる決心をして産んだものの、精神を不安定にしてしまう。
それを意に介さない父は、いのちの豊かさから遠く冷たい世界に生きている。

マルタは母への共感と共に、父の冷徹な考え方に違和感を覚えると、
もう会いに行くことをやめ、やがてその他に唯一の血縁である大叔父を訪ねます。
大叔父ジョナタはイスラエルキブツで、グレープフルーツを栽培して暮らし、
彼は宗教と言うよりも、大地に根ざして木を大切に生きる人だったのです。
そのジョナタから、マルタは今まで知らなかった多くの話を聞くことができます。
それは祖母が話す機会のないままに終わった、祖先の悲しい物語でした。

そしてジョナタはマルタに問うのです。「君は何を信じているのか」と。
何を信じて、どうして生きているのか?と、人間としての根元的な問い掛けに、
マルタは自分が、「苦しみ」しか信じていないことに思い至るのです。
それは自らが孤児として祖母に育てられる中で、あるいは父を見つけた中で、
そのどこにも安らぎの場所がなかったことを指しているのかもしれません。
と同時にこの問いかけは、読者すべての人に発せられた問いでもあるのです。

この問いに対する作者スザンナの答えは、ジョナタと彼の息子の発言にあります。
またせっかく見つけ出した父が、深く悔悛してマルタ宛に書いた手紙に希望もある。
その中で僕は、ジョナタが現代の文明批判とも思われる発言をするところに、
自分が自然農による自給生活を目指していることもあって、おおいに共感しました。
この部分、212頁から218頁に至るジョナタの発言が、僕は特別に好きです。
ユダヤの教えに、哲学する木の話があったように思うのは思い違いでしょうか。

全編を通して、スザンナは驚くべきストレートさで、人間とは何かを問うている。
これはあくまで小説だから、その答えを書き示すものではないのでしょうが、
読むものに考えさせる素材は十分に提示され、スザンナ自身の境地もわかるのです。
子どもの頃に大切に思っていた木が切られた思い出から、この小説は始まっている。
失われていた心は、木を大切にして生きるジョナタとの出会いによって実を結び、
やがて少しずつ、木の傷が回復するように満ちていく様子を予感として見せるのです。

この本の最後の2行が、「心のおもむくままに」の出だしになっていることで、
物語はひとりの人の人生を描く、大きな輪の中に繋がっていくのですが、
こうした技巧さえ自然に表現されていて、作者の並ならぬ才能を感じました。



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