「いのちの食べかた」

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まもなく公開されるドキュメンタリー映画いのちの食べかた
この試写会があったので、金沢まで行って見てきました。

人間は昔も今も、野菜、果物、穀物、魚、肉などを食べて生きていますが、
現代社会では、あらゆる食べ物が、商店やスーパーにきれいに並んでいて、
自分たちが毎日食べているものが、どのようにもたらされているのか?
ほとんど別世界の出来事のように、その製造過程が見えなくなっています。

だけど、毎日自分が食べているものがどこから、どのように来るのか、
まったく知らないのもおかしな話だと思い、この映画には関心がありました。
そこで試写会に行ってみたのですが、これはなんとも刺激的な映画でした。
普通ありがちなナレーションや説明が、最初から最後までまったくなくて、
ただひたすら、食料が大量に生産される場所を映し続けているのです。

見渡す限りの広い畑で、大型機械を使って種を蒔き、収穫される野菜や穀物
あるいは自動的にふるい分けられる、膨大な量の果物まではいいのですが、
同じように大量処理される、魚や鶏や、さらには大きな牛を見ていると、
僕には食料の生産現場と言うよりも、アウシュビッツの大量虐殺を見るような、
なんとも言い難い、索漠とした気持ちになってしまったのです。

一緒に見ていた人の中には、「こんなにしてまで食べたくない!」と言う人や、
こうした真実こそ、多くの人が見て知っているべきだという人など、
様々な反応があって、そのどれもが否定できない気持ちになってしまいます。

ただこうした極端に合理的ないのちの処理の仕方を、子どもたちに見せるのは、
人間が長い間、食べ物としてのいのちとの向き合いかたを冒涜しているようで、
もっと素朴な、いのちとの向き合いかたを知った上でないと見せたくない!
と思ったのは、僕だけではなかったようなので、書き記しておきます。

魚一匹と牛一頭のいのちに、いのちとしての価値が違うのか同じなのか?
簡単には言えませんが、次々にオートメーションで屠殺される牛の姿は、
僕にはどうしても「大量虐殺」って言葉を連想させてしまうのです。
「こんなにまでして食べる」人間って、それは凄まじいものでしょう。
だけどこれが、現代社会に隠された、食生活の真実の裏側なのです。

さらに次々といのちを処理する作業場の中でも、人は食事をして生きている。
あたりまえのことでありながら、これでいいのだろうかと思わされてしまう。
店頭に並ぶ食品としての「肉」も、元はいのちがあったのに殺された!
この事実を、僕らはどう消化すればいいのか?合理化だけでは済まされない、
何か大切な欠落が生まれているような気がしてならないのです。

この映画は、少なくともそうした現実を目の当たりに見せてくれる、
何の説明もないのに、ひどく重い映画だったように思います。

北陸地区では、12月1日よりシネモンドで公開されますが、
僕はまず、子どもではなく、おとなに見て欲しいと思うのです。


この映画と同じテーマの、森辰也さん「いのちの食べかた」は(↓)こちら。
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